弱キャラ友崎くん Lv.1 (ガガガ文庫) | |
屋久ユウキ | |
(2016) |
小学館eBooks
弱キャラ友崎くん Lv.1
屋久ユウキ
イラスト フライ
『人生は神ゲー』だのという有名な文章があるが俺から言わせればそんなのは嘘だ。
本気でがんばればギリギリクリアできるように絶妙なバランス調整がされている、なんてのは本当にどうしようもない事態に直面したことのない人間の戯 れ言だし、全てのキャラが深い人間性と歴史を持って登場する、なんてのは世の中に底の浅いモブキャラがどれだけいるのか知らない人間による気の抜けた理想でしかない。お前もモブだろとかは言わないでほしい。
無限×無限ピクセルの画素数が毎秒無限フレームで動いてることだって、必ずしもいいことじゃない。画素数が少ないがゆえの味ってもんだっ てあるし、なによりこの世界の解像度が高すぎるせいで俺みたいなブサイクがブサイクとして映るのだ。ドット絵ならもっとみんなと同じだったに違いない。泣 いてないよ。
ていうかそもそも、複雑で美麗なら複雑で美麗なほどいいという考え方自体がまず間違っている。優れたゲームってのは、いつだってシンプルで美しいものなのだ。
将棋だってそうだしスーパーマリオだってそうだし、最新のFPSだってルールとコンセプトはシンプルだ。シンプルなルールとコンセプトの中に、奥深さと味わいが息づいている。
歴史に残るゲームとは、いつだってそういうものなのだ。
さて。その点、人生はどうだ。
古代から多くの賢い科学者たちが実験と検証を駆使して『あらゆる事象の法則』という『人生のルール』を探し求めてきたが、ついに現在に至るまでその答えは見つけ出されていない。
古代から多くの鋭い哲学者たちが発想を論理で束ねて『生きる意味は何か?』という『人生のコンセプト』を考え尽くしてきたが、そんなの人それぞれ、と言われて反論できる意見なんて俺は一度だって聞いたことはない。
そんな、シンプルどころかもし現状で無理やり答えをだすなら『とりあえず生きろ、あとは知らん』としか言いようがないルールとコンセプトだけを持ったゲームなんて、一体どこが神ゲーだというのだろう。
それどころか、人と同じことをしても顔や体格や年齢で差別され悪いように取られたり、どんなにがんばっても本番で体調を崩したら全て無駄 になったり。クソゲーである理由として説得力のある要素ばかりが目につく。なんの罪もない俺みたいな弱キャラが、ただ生まれつき弱いというだけでこんなに も虐げられる。
理不尽で不平等。弱者に不利。
つまりは──『人生はクソゲー』。
このありふれた定型句こそが、この世界の本当のことなのだ。
すると、こんな反論が聞こえてくるかもしれない。「ちゃんと人生をがんばってないからそう思うんでしょ?」。けどそれこそ、強キャラに生まれたから思うだけの、偏った思考だ。
もともと有利だから、『人生』の理不尽さに気づけていない。強キャラのイージーモードで簡単に無双して、それが楽しくて、それが世界のすべてだと思い込んでしまっている。
つまりはただのにわかゲーマーの意見だ。
ろくにゲームを極めたことがないならすっこんでろ。
たまたま強キャラに生まれて楽してるだけのにわかゲーマーに、人生を語る資格はない。
あらゆるゲームをがんばり続けて、頂点に立ち続けてきた俺が言うんだから間違いない。
人生は、クソゲーだ。
──以上。日本一のゲーマー、nanashiより。
実力の差は歴然だった。
俺の操作する忍者キャラ『ファウンド』の動きと、中村の操作する狐 キャラ『フォクシー』の動きには、誰 が見てもわかるくらいのレベル差があった。まあ、リア充にしてはやるんじゃない、ってくらい。このテレビゲーム──アタファミを使った賭 で勝ちまくってるとの噂だが、その場の程度が知れる。俺は試合開始早々、勝ちを確信していた。
けれど俺はアタファミに関しては手は抜けないたちだ。だから中村の残機が一になったこの状況でも、あえて愚直に突っ込んでいくように見せて途中で『瞬 』を使う、みたいな揺さぶりを使っていく。おそらくこのくらいの実力なら、瞬を知ってすらいないだろう。地面スレスレで斜め下に『空中回避移動』することで、地面を素早く滑 る回避のテクニックだ。
中村は俺のその揺さぶりに引っかかり、打撃を放つ。俺はそれを後ろへの瞬でかわしたあと、隙 を突いて、近づく。このゲームのコンボの基本は投げだ。投げから始動するコンボをどれだけ繋 げられるか。俺の使っているキャラであるファウンドは、特にその側面が強い。
中村のキャラを掴 むファウンド。そこからはもう俺の独壇場だ。簡単なようで実は繊細な操作を要求されるコンボを、次々と繋いでいく。抜ける方法がないわけではないが、中村はそれを知らない、できない。だから当然そのままフィニッシュ。
これで、中村の残機はゼロ──。
「よし」
うん。勝ってしまった。まあ、俺がアタファミで素人に負けるはずがないのだが、それにしたってこんなあっさりと、って感じだ。なんというかこのあとが怖い。
ストック四機制。特殊ギミック無しの平坦ステージ。お互いにプレイは初見。
その平等な条件下で、中村の残機はゼロ。俺の残機は──四。
これはまあ、完勝だ。中村のほうを見てみると、なにか言いたげな表情で、俺の顔と手に持ったコントローラーを交互に見ている。俺の顔に向 けられる視線からは、ほんの少しの劣等感が見て取れる。これはちょっとびっくりだ。まさか俺の高校生活で、中村からこんな弱い目線を向けられることがある なんて。想像していなかった。
茶髪でイケメン、見るからにリア充、勉強も運動もモテも、それこそゲームの上手 さすらもすべてトップクラス、要領のよさだけで周囲の人間から頭ひとつ抜けてきたような、自信に満ち溢 れた顔つきのリア充高校生中村。その中村が俺のことを、弱々しい目で見ている。こんな、見るからにキモオタ丸出しの俺のことをだ。
「......の...いだ」
中村がなにか言っている。
「え?」
「キャラのせいだ」
「......はい?」
「キャラが悪かった。そのせいだろこれ、普通に」
「い、いや、このキャラとこのキャラ、性能的に同じくらいだけど......」
「じゃなくて、相性。どう考えても相性悪いじゃん、これ」
中村は当然のように言う。あっけにとられてしまった。そんなの、どう考えても言い訳だ。
そして、ああそうかと俺は気づく。こんな悪あがきをされるということは、俺がものすごくナメられてるってことだ。ここまでしないとプライ ドを保てないほど俺に負けることが屈辱的だってことだし、まあこいつにならかっこ悪く言い訳してもいいや、と思われているということですらある。前提とし て見下されているのだ。そう、これが弱キャラに与えられた不平等な定めなのだ。
けど。いまだけは違う。
この瞬間。アタファミを目の前にしている瞬間だけは。
「た、たしかにフォクシーは落下が速いからコンボつなげやすいっちゃやすいけど」
「だろ。キャラの相性じゃん、こんなゲーム」
俺は息を吸って、中村の目を真っ直 ぐ見据える。怖い。けど。
「......そんなの、言い訳だろ」
見下されるのには慣れた。大して悔しくも感じない。それが当然になっているからだ。
「だって実際そうじゃん。こんなので勝って嬉しいのお前? クソゲーじゃん。くだらな」
しかし、こういうのには一向に慣れない。
俺は──負けた人間が努力せずにそれを正当化するのが、なにより嫌いなんだ。
「嬉しいよ。くだらないと思うのは中村が勝ってないからだろ? 勝った気持ちを味わってないからわからないんだろうね。勝った人間が勝った上で、でもこれはくだらないって言うならわかる。けど、負けたやつが負けたあとでそんなこと言っても、負け犬の遠 吠えだ」
俺は自分がアタファミの戦場にいるつもりで啖呵を切った。
「は? 実際キャラ相性じゃん。クソゲーだわクソゲー。勝ちも負けもねーよ」
「相性どころの差じゃないから。中村が負けたのは中村が弱いから。キャラ逆でも勝てるし」
「......じゃあやるか? キャラ替えて。それなら絶対負けねーから、お前なんかに」
闘志に燃えた目で中村が言う。このタイミングで絶対負けないとか言い放ってしまえる胆力というか鈍感さというか根拠のない自信みたいなも のは、本当に人生の強キャラならではだ。俺には、人生の弱キャラにはこれがない。間違っているのに正しいかのように振る舞える強さ。『自分だから』なんて ことを根拠に持てる自信。そんな生き物としての強さがない。
それどころか俺は、これだけ圧勝しているいまも、なぜかまだ少し不安なのだ。
けど、いまこの瞬間の俺は弱キャラなんかじゃない。
「......いや、でもめんどくさいからさ」
「なんだよ、そこまで言ったならやれよ」
「じゃなくて、あとでまたくだらない言い訳されたら面倒だからさ」
「は?」
アタファミをやってるあいだの俺は、最強なんだ。
「キャラはもちろん入れ替えるとして、あとコントローラーも入れ替えよう。ボタン効かなかった、とか言われたらダルいからな。あと、座って いる位置も入れ替えようか。画面の反射が~とかも言ってきそうだし。んで、ストックを八機にしよう。長期戦のほうが実力がハッキリ出るだろ? で、あとど うしようか。抜け方を知らないと抜けられないコンボは使わないことにするか。それは技術じゃなくて知識の問題だしな。そうすれば単純に、操作技術と反射神 経と判断力の戦いになるだろ。えーと、まだなんかいるか? ......洋服でも交換するか?」
はっはっは。言ってやった言ってやった。確実にあとで後悔するぜ。俺がな。
「......いらねえよ。調子に乗るな。マジで」
すごい目で睨まれる。こうして本気で睨まれると俺はこいつよりも動物的に下だと本能的に思わされてしまい、つい劣等感が湧 き出る。ごめんって言いそうになる。この場ではどう考えても俺が正しいのに。これが人生に定められたルールだ。
俺と中村 は場所を入れ替え、コントローラーを入れ替え、キャラを入れ替え、ストックを八機に設定し、さすがに洋服は入れ替えず、あとはスタートボタンを押せば戦闘が始まる。
「俺が勝ったらちゃんと認めろよ、中村」
「わかってるよ」
「わかってないだろ」
「......いやわかってるから。ちゃんとお前の実力を認める」
「いや、それももちろんそうだけど。あともう一つ認めろよ」
「なんだよ」
こいつはなにもわかっちゃいない。
「さっきアタファミのことクソゲーって言ってたよな?」
「は?」
実は、負けを認めないことよりもこっちに腹が立っていた。
「......アタファミは神ゲーだってこと、認めろ」
もちろんその試合では、俺が八機中八機を残し、完勝した。
***
nanashi:お疲れ様でした
コウキ:お疲れ様でした
そしてその次の日、俺はいつもどおり、アタックファミリーズ通称アタファミのオンライン対戦をこなしていた。対戦者同士はチャットができるため、終了時に挨拶を するのが礼儀だ。もちろん今回も勝利。着々とレートを上げていく。四か月前にレートがリセットされて以降、数週間でレート日本一位に上り詰めた俺は、今も 危なげなくその地位を維持している。ハンドルネームはnanashi。名前を付けるのが恥ずかしかったのと、名無しってかっこいいなということで付けた名 前だ。友崎文也 という本名とはなんの関係もない。
レートがリセットされる以前も、まあ何回かは転落したことはあったが、それでもほぼ常に一位を維持してきた。国内敵なしと言ってしまっていいだろう。
アタファミは、その類いまれなる完成度から、現状のオンライン対戦ゲーム界で最も多いプレイ人口を擁 している。つまり、このゲームで一位ということは、俺は日本で最もゲームが上手 い人間なのだ、と言ってしまっていいということになる。たぶん。
そんな俺ことnanashiが、その名前のこともあって唯一意識しているアタファミプレイヤーが『NO NAME』だ。一位の座を奪われたことこそないが、ここ数か月ずっと二位につけてきている。しかも俺が確認した限り、最初に二位になって以降、NO NAMEもその座を奪われたことはない。つまり、『nanashi』と『NO NAME』が一位二位を独占しているのだ。
その名前の類似性もあって、ネットのゲームコミュニティでは「あの二つのアカウントは同一人物なのではないか?」というデマが、まことしやかに囁かれている。
だからnanashiの俺が断言しよう。nanashiとNO NAMEは、まったくの別人だ。
しかし、NO NAMEがアタファミ界に出てきたのがここ数か月であるという点、その割りにはありえないスピードで二位まで上り詰めたという点、そしてなにより、 nanashiとNO NAMEの直接対決がまだ実現していないという点によって、その同一人物説は真実味を帯びてしまっている。なにしろ、使用キャラも同じファウンドで、プレ イスタイルも似ているようなのだ。おそらく、対戦映像のアーカイブから俺のプレイを参考にしたのだろう。
nanashi:お疲れ様でした
YuKichi:お疲れ様でした すごく強いですね!
nanashi:ありがとうございます。では
こうしてまた勝利し、退室する。そりゃ俺も負けることはあるが、もう最近はそれすら自分との戦いの様相を呈してきている。相手のテクニックの上手 さにより負けるということはまずなく、負けるときはほぼすべて自分のミスによるものなのだ。しかしだからこそ、一位になった今でも努力のしがいがあるし、上達の余地も残っていると言える。
だからじゃあ次は戦闘の中でミスを減らすことを考えながらやろう、とか考えていたその時。
俺は息を呑んだ。
対戦相手、の欄に書かれた一つの名前。
NO NAME レート:2561
体中の血液が脳に集まっていくのがわかる。戦う相手に期待するという久しぶりの感覚。コントローラーを握る力が強まるのがわかった。
試合が始まる。そしてすぐに俺は驚いた。俺は、NO NAMEは俺のプレイスタイルを真似 しているのだと思っていた。しかし、開始直後の行動からまったく違っていたのだ。
俺は敵に突進、コンボを狙いに行った。しかしNO NAMEはその場で待機、飛び道具を溜め始めたのだ。
これは、ファウンド同士のミラーマッチになったとき、俺が唯一不利に感じる行動だ。
そしてこれは、偶然じゃない。そんなことを根拠もなく思った。
俺のことを研究し、しかしただの猿真似には堕 さず、自分なりの対策までしたのだと、なぜか確信できていた。
さらに驚いたのは、NO NAMEの正確無比な操作や、圧倒的なコンボ抜けの技術だ。俺が少しでも甘い操作をすれば、即座にコンボを抜けてくる。
立ち回りやコンボをつなぐ発想はまだまだ俺のほうが上だが、コンボ抜けの技術だけで言うなら正直なところ──すでに俺を超えている。
というよりも、俺はおそらくコンボ抜けがうまくない。なぜなら俺は強すぎて、そもそもコンボを入れられることが少ないのだ。逆に言えば、数少ない俺の弱点の一つがそこにある。
つまりは『始点の攻撃を喰らわなければいい、だからコンボを抜ける必要すらない』。そんな思考、そんな前提だ。だからこそ、もしNO NAMEが俺と同じくらいの立ち回りやコンボの発想を身につけたならばそのとき、コンボ抜けの技術の差で俺が負けることになるだろう。
──そしておそらく、NO NAMEはそれを視野に入れているのだ。
なぜそれがわかるか。簡単だ。
NO NAMEは、実力に比して、コンボ抜けがうますぎるのだ。
これほどの実力なら、敵にコンボを入れられることは少なく、つまりコンボ抜けの練習をする機会が少なくなる。だから、NO NAMEに限らず超上位プレイヤーは俺含め、攻めのほうが得意で防戦が苦手なプレイヤーが多い。
しかし、このNO NAME。国内二位という実力に対して、防戦の経験値がありすぎる。いやむしろ、そこを得意としているのだ。
これは、NO NAMEはコンボを喰らう機会が多いということ──いや、言ってしまうならば、『普段から練習のため、わざとコンボを喰らっている』ということを意味している。
つまりNO NAMEは、目先の勝率やプレイの気持ちよさを、捨てているのだ。
最終的な実力、長期的な順位だけを見据えて、戦っている。目の前の一戦で不利になっても、勝率が下がっても、順位や評判が落ちても、数か月後の実力を選んでいるのだ。
人はそれを舐めプと呼ぶかもしれないが違う、これはれっきとした鍛錬だ。
少なくとも俺は、ここまであらゆる即物的な快感を捨て、徹底し、そして明らかな『結果』を出しているプレイヤーなんて、ほかに知らない。
NO NAME。俺はいつまでも日本一位でいるつもりだったが、そんな余裕は言っていられないかもしれない。ただこれだけは言える。現状、もしも国内で、俺を超えるアタファミプレイヤーが現れるとするなら。
それはNO NAME、ただ一人であろう。
そんなことを思いながら結果は──現状の実力差が表れ、俺は二機を残して勝利した。
nanashi:お疲れ様でした
そして最後の礼儀。チャットでの挨拶。相手からの返礼があり次第、退室する。
NO NAME:関東住みですか?
ん? 住所を聞いてきている。なんのつもりだろうか。
nanashi:はい、関東ですけど...
NO NAME:もしよければ、お会いしませんか?
nanashi:え、それは実際にリアルで一対一で、ってことですか?
NO NAME:はい、そういうことです。できればお話しと、リベンジがしたいです
オフ会の誘い。それもおそらく一対一。ということだよな?
どうしたものか。たしかに最近はネットで知り合った人に会うことのハードルは下がってきていて、実際、普通に考えてそんなに危険なこともない。こうしてアタファミのレート一位二位という関わりがあるなら、会ってみてもおもしろいかもしれない。なら......。
nanashi:わかりました、いいですよ
NO NAME:ありがとうございます! あなたの最寄り駅はどちらですか? 誘っておいて悪いので、こちらが向かいます
nanashi:えーとですね......
俺は駅を指定し、待ち合わせの約束をした。一番の最寄り駅ではなく、家から一駅先のターミナル駅を指定した。そのほうが相手も交通の便がいいだろう。
NO NAME:わかりました! それでは次の土曜、十四時によろしくお願いします!
こうして、満を持しての対決のすぐあと、こんなもんかという程あっさりと、NO NAMEとのサシオフが決まったのだった。
***
中村と対戦した土曜日、NO NAMEと対戦した日曜日を終えての二日ぶりの学校、二年二組の教室は、思いのほか平凡なものであった。中村の手配によって俺の地位が著 しく低下していてもおかしくないなと覚悟した上での登校だったため、拍子抜けしたしなにより安心した。
昔は中学で一番強く、高校でも一番強いのではという評判だった中村と、『なぜかやたら強いらしい』と評判だった俺がついに対決する、とい う話は、そこまで大ニュースではないものの、二~三週間に一度の事件くらいの感覚でクラスにそれとなく浸透していた。その割りに対決を終えた今、誰 もそれに触れてこないということは、みんななんとなく察して腫れ物扱いなのだろう。まあ、それが一番平和的な解決というものだ。
そうしていつものようにぼっちな日々を過ごし、刺激こそないが別に不満足ではない時間をおくっていた。ぬるい日常を謳歌 していたと言っていい。俺はこういう日常を享受して生きていくのだ。
──そんな中、小さい事件が起きたのが水曜日の昼休みのことだった。
今日も適当に一人で飯でも食べようと、廊下を歩いていたとき。中村とバッタリ出くわした。これが普段と同じ条件ならただお互いに無視すればいいのだが、今回はイレギュラーが発生していた。中村が女子を連れていたのだ。それも、日南 葵を、だ。
日南葵。才色兼備の大和撫子、それでいて天真爛漫で、 男女ともに好かれる文句なしのパーフェクトヒロイン。学力校内一位なのは当然として、短距離走だとかハンドボール投げみたいな体力テストの全種目でもずば 抜けて女子内一位。いや女子どころか、男子のトップ勢としのぎを削ってすらいるというまさにチートスペック。それでいて嫌味のないナチュラルメイクに愛想 のいい笑顔。なのにどこか憎めない天然というか真っ直 ぐというかバカな要素も持ち合わせていて、そんな弱点を持っていることが逆に女子として完璧 に仕上がっているという徹底ぶり、それで色気すら漂っているのだからもう仕組みがわからない。リア充が苦手な俺ですら好感というかもう畏怖の念を抱いてしまうレベルだ。
どうしてこの関友高校に来ているのかが不思議でならないくらい。埼玉県内では上位の私立ではあるが、所詮埼玉なので都内の進学校と比べたら中途半端な立ち位置でしかない。なんか周り田んぼめっちゃあるし。埼玉って駅から離れたら田舎なとこ多いのよね。
以前、後ろの席のまあイケてもイケてなくもないくらいの、確実に俺よりはイケているクラスメイト二人が、こんな会話をしていたのを思い出す。
「なあ、葵ちゃんのことどう思う?」
「葵ちゃんって、日南葵のこと?」
「そうそう」
「どうって......。ちょー好きだよ。みんなそうでしょ。アイドルでしょ、あれはもう」
「だよなあ」
「本来異常なはずでしょ。勉強も、運動も、容姿もなにもかも完璧で。天才ってレベルじゃないじゃん」
「ほんとにな。俺らがどんなにがんばったところでどのジャンルでも勝てる気がしないよな」
「なのにさ、めっちゃみんなと仲いいじゃん。そこがおかしいんだよ。だって俺、一番仲いい女子誰って聞かれたら日南 葵だもん」
「......俺も。あの子と一番仲いいわ」
「な。おかしいよな。俺らと仲良くなっても大してメリットないもん。なのに分けへだてなくさあ。じゃあ計算じゃないんだよ、あれ」
「なんなんだろうな、人生の天才とでも言えばいいのか......」
「あー、あれはまさにそんな感じだわ。野球の天才とか発明の天才とかそういうんじゃなくて、人生の天才。神様だね」
「うちの学校に入れてくれたことを葵ちゃんの親に感謝したいね」
「ほんとそれ。埼玉が唯一東京に勝ってるところは日南葵の存在だね」
──そんな日南葵とすら仲がよくないどころか一度も喋 ったことがない俺って一体。逆になにかの天才なのかもしれない、と思わされたのだった。あと東京東京言ってないでまずは神奈川を打倒すべきだとも思った。もしくは千葉。負けられない。
ともかく、そんな日南葵と中村 が一緒にいる。もちろん彼女に俺と中村が対戦するという情報が入っていないはずがない。それゆえに起きた小爆発だった。
「あ! 友崎くん! 修二 とアタファミで勝負したんだって? どうなったの?」
「えっ、あっ日南さん、えっと、それは、かばっ」
完全に噛んだ。でもこれは俺がキモオタだから噛んだのではなく、たぶん日南葵相手だとちょいオタくらいでも噛むはずだ。
「あはは、なにそれ、かばっ、って!」
完全に笑われたが不思議とバカにされている感じがしない。笑顔に滲み出る無邪気さがそうさせるのだろうか。それとも笑い声の綺 麗な音色によるものだろうか。それとも上品に口を押さえる仕草によるものだろうか。日南葵さんが喜んでいるところを見れて嬉 しいという感情だけが湧き上がる。なんだろうかこれは。このスマイルには魔法がかかっている。
「あははは、あー楽し。えーと、なんだっけ。あ、そうそう! どっちが勝ったの?」
楽しい? 楽しいだなんて。俺が日南葵さんを楽しませることができたなんて、こんなに素晴らしいことがほかにあるだろうか? とすら思わされる聖女のような存在感。なんだこれ。
「えーっと......」
「うんうん」
しかしすぐ近くに中村 がいる。明らかに俺を見て不機嫌になっている。対戦時あれだけ調子に乗ったことを言いまくった挙句ちゃんとボコボコにしてしまったのだから、それは仕方ない。
問題は、そんなピリピリした状態で、しかも学園のヒロインの前で「俺が勝ったよ」なんて言ったらどうなるかってことだ。中村は日南葵 によく思われたいだろうし、俺の株が上がるのは心底気に入らないだろうし、うん、まずいことになりそうだ。
いや俺だって学園のヒロインの前でちょっと自分がかっこいいところを見せたいみたいな気持ちはあるにはある。ひねくれてるけど俺も人間だ。けど俺がそんなちょっとかっこいいところを見せたところで今後のなににも繋 が らないし、それどころか強すぎオタクキモイワロタと思われる可能性だってある。なぜなら人生は不平等なクソゲーだからだ。ならば、ここは負けたとか言っと いたほうがいいのだろうか。そうすればそれですべてが丸くおさまるだろうか。いやでもそれは逆に中村のプライドに傷を......そこまで考えてふと気づ いた。
ちょっと待て。このパーフェクト超人日南葵、なんで俺に聞いてくるんだ? 仲がいいのだからどう考えても中村に聞くのが自然だ。あまり喋 ったことのない俺と会話しようと気を使っているのだろうか。いやそもそも、日南葵の空気読みスキルなら、最近の学校の空気から、中村が負けたことくらいわかりそうなものだ。その状態で俺にその話題を振るのは妙である。だとしたら、この状況はなんだろうか。
......わからない。考えていると、中村が不意に口を開いた。
「うるせーな葵、俺が負けたよ。こんなやついいから行くぞ」
至極不機嫌そうに、吐き捨てるように。空気が凍る。おいおい、これ大丈夫か?
「えーっ! そうなんだ! すごいね友崎くん! 修二、ドンマイ!」
少し小馬鹿にしているようで愛のあるニュアンスのドンマイだ。空気が和 らぐ。
「......うるせーばーか!」
呆れたように笑いながら、中村が日南葵に突っ込む。
「へーっ、でも、なんでもできる修二に勝つなんて友崎くんよっぽど強いんだね! すごいなぁ......」
「い、いやべつに......」
「今度私も戦ってみたい!」
「そ、それはやめといたほうがいいと思うけど......」
「だよね! ごめん調子乗った!」
そうしてエヘヘと笑う日南葵。なんだこいつめっちゃ喋 りやすい。これがコミュ力ってやつだろうか。しかも横では中村が、負けたと明言されたのにもかかわらず、子供を見守るように薄く微笑んでいる。これも日南葵のフォローの成果だろうか。だとしたら本当にすごい。
「あ、じゃあ俺、が、学食行くから」
「わかった! じゃあね。今度コツだけでも教えてね」
「あ、ああ」
「......ぎ......つ」
中村が小声でなにか言った。
「え?」
「なんでもねーよ、じゃあな」
な、なんだ?
「えーと、じゃ、じゃあ」
「じゃあね!」
そして俺は日南葵の二度目のじゃあねを背に受けながら学食へと歩き出した。
......な、なんとかなった。俺は胸を撫で下ろす。
しかし、なるほど。このフォローができるから、あの話題を出しても最終的にいじって盛り上がるくらいに収まると踏んでいたってことか。リア充にしかできない選択だ。これは俺の脳で推測できるはずがなかった。
それにしても、中村が自分で「負けた」と明言したのは意外だった。そのせいで俺に対するヘイトが溜まったりしてなきゃいいけど......。とか考えながら、学食に着く。
こうして起きた小さい爆発は日南葵の 圧倒的コミュ力によって優しく包まれ、収縮して消化されていったのだった。俺はリア充の妙な自信とかやたらに上げられたテンションとかそういうのはすべて 苦手だし、中身のないものだと考えていたが、日南葵だけはすごいと認めざるをえない。そんなふうに少し価値観が変えられた、そういう意味での小さな事件 だった。
そしてきたる土曜日、大きな事件が起きたのだった。
『着きました!』
『あと二分くらいで着きます』
『わかりました!』
NO NAMEとの待ち合わせの日。『連絡ありましたらここにください!』と送られてきたメールアドレスでやりとりを交わす。NO NAMEはすでに着いているらしい。俺も一駅だけ電車に揺られ、そして到着した。
『着きました』
『分かりました! 東口のコンビニの前にいます』
『了解です 服装を教えて下さい』
東口を出ると正面に見えるコンビニの前には灰皿があり、数名の男がたばこを吸っている。あの中の誰かだろうか。
携帯のバイブが鳴る。メールを開く。え。
『上は白と青のシャツで、下は黒のスカートです!』
──女性。いや、まあそうか、ありえるか。ついつい勝手に男だと思っていたが、たしかに別に女性でも不自然はない。そう思いながらコンビニのすぐ近くに到着、見渡してみると、自販機を見つめている一人の女性が目に入る。白と青のシャツに黒のスカート。この人だ。
後ろ姿は肩にかかるくらいのサラサラ黒髪、肌は透明感を覚えるほどの白、顔は見えないがおそらく若い。後ろ姿でもうすでにかわいいオーラがある。あー、どうしよう。話しかけるのに緊張してしまう。声が裏返らないといいけど。
「あ、あのっ、すびません、NO NAMEさんですか?」
うまく言えた。呼ばれて振り返る黒髪清純少女。一体どんな顔を──え。
「どうも! NO NAMEです......は?」
「...え......? ......ひ......」
「はぁ!?」
俺が驚いた声を上げるより先に大きな叫び声を上げた日南葵。日南葵!? なんだこれ?
「え......日南......さん?」
「ちょっと待って、一回落ち着かせて。......あなたはたしか友崎くん、よね? 同じクラスの」
「あ、ああ、そうだけど......」
やっぱりそっくりさんとかじゃなくて本当に日南葵 だ。ていうか、驚いている、とか以前に様子がおかしい。口調もいつもとまったく違う。なんというか快活さがなく、冷たい印象だ。その割りに、演技をしているというふうにも見えない。
「あなたがnanashiなの?」
どこか威圧的な響きの疑問形だ。俺はそれにしどろもどろに答える。
「そ、そうだけど......」
「......っ!」
ぐっ、と眉間 にシワが寄る。なんだこれ。俺の知っている日南葵はこんな怖い表情をする女の子じゃなかったはずだ。もっと天真 爛漫で可憐 な......。
「最悪ね......」
「え?」
「できれば信じたくないわ。nanashiの正体がこんなうだつのあがらないやつだなんて」
「ひ、日南さん?」
いま彼女はなんて言った? 「こんなうだつのあがらないやつ」? 人にそんな言葉を使うような性格じゃないはずだよな? なんだこれ? 二重人格? いや俺がキモすぎるせい?
「ど、どうしたんだ? 日南さん、ちょっと様子が......口調とか」
「っ!」
大きく後ろにのけぞり、ものすごくバツの悪そうな表情。めちゃくちゃ顔が大きく動くので感情が読み取りやすい。普段はそれがもっとかわいい感じに作用しているはずなのだが。
「はぁ......。アタファミのことになると我を忘れるのはなんとかしなくちゃ......」
「はい?」
「でもここまで見られたらもう関係ないわ」
「関係......?」
「口調と様子よね? もういいわ、これで問題ない」
「いや、問題ないって......」
あるだろ、問題。大いに。誰? ってレベルだぞホントに。
「......」
「......」
そして不意に訪れる一瞬の沈黙。気まずい。しかし日南葵は凜とした表情で、なにかこの気まずさを埋める言葉を探すそぶりすらない。
「そ、それにしても、えーと、NO NAMEが日南さんだったとか、ビックリ......というか」
ちょっとした間をつなぐための言葉すらしどろもどろになる俺。逆に安定感すらある。
「そうね。私もガッカリだわ。あなたみたいな向上心のカケラもない、人生を負けたまま放棄してるゴミみたいな人間が、私が唯一尊敬していたあのnanashiだったなんて」
「......は?」
俺が心のなかで自分を傷つけていると、外の世界からまさかの追い討ちがきた。ひどい暴言。ゴミみたいな人間て。尊敬とかも言ってたけど過去形だったし。学校とのギャップがすごすぎてそればかりに気を取られていたが、ここまで悪く言われたら黙ってはいられない。
「ちょ、ちょっと待て。えっと、なんで俺がそこまで......言われなきゃならないんだよ?」
「事実を言っただけだけど」
「事実、だからって......い、言っていいことと悪いことが、あるわけでだな」
「なにそれ?」
「よく知りもしないやつに、こ、向上心だとか負けたまま放棄? だとか......そういう説教をされる筋合いはない、失礼だろ、と、言いたいわけで......」
「人に失礼だと言うなら、まず口に物を入れたまましゃべるのをやめるべきじゃない?」
「なんも入れてねえよ!」
俺は大口を開けて、やっと噛まずに言葉をしゃべる。日南葵 は無愛想にこちらを見ている。
「......けどまあ、そうね。失礼といえば失礼。だからそこは謝るわ。ごめんなさい。あのゲームの事になると熱くなってしまうの。......それでも、失礼を承知で言わせてもらうわ。唯一尊敬していた人物が、実は一番嫌いな人種だったんだから」
「だからそういうのが......」
「礼儀の話ならあなただって人のこと言えないわよ? なによその服装」
はあ? それは関係ないだろ。ドレスコードじゃあるまいし。
「ど、どういう意味だよ。服装なんて人の自由だろ」
「......はぁ。そういうところが嫌いだって言ってるのよ」
「は?」
まだ言うか。さっきは謝っておいて。
「人と会うとき、それも初対面の人と会うときの最低限の服装ってものがあるでしょう? まあ今回は偶然初対面ではなかったけれど、初対面のつもりだったわよね? なによそのシワだらけのシャツ。ちゃんとアイロンはかけたかしら? ジーンズの裾 もボロボロじゃない。いつからはいてるの? 買い替える気はないの? いまだにハイテクスニーカーを履いてる高校生なんて久しぶりに見たわ。土だらけだし靴 紐 もボロボロ。ほどけたまま歩いたのがまるわかりね。髪の毛もほらそれ、寝ぐせよね。ちゃんと髪型は整えた? もしかして鏡を見てすらいない? それで初対面の人と会うなんて、それは『失礼』だと言えないかしら? 友 崎くん?」
指摘されて自分に意識がいく。気にしていなかったがまあ、たしかに身だしなみが整ってる、とは言えないかもしれない。まあそれはわかった。でも、なんなんだよこいつ。なんでこんな仲良くもないやつに突然、ここまでめった刺しにされなくちゃならない?
「で、でもそんなの、お前に関係ないだろ、人の勝手だ」
「そうね。あなたがそれでいいならいいんでしょうね。ただ、あなたが言った『失礼』という意味では、あなたも私と同じことをしている。それだけの話よ」
「同じこと?」
「まあ、実際は初対面じゃなかったわけだし、別にあなたは謝る必要はないわ。もし本当に初対面だったら謝る必要があっただろうけど」
実際のゴミでも見るかのような軽蔑どころか嫌悪の眼差しを向けてくる日南葵。
「......とはいえここまで言うのはやっぱり私が一方的に失礼ね。間違ってるとは思ってないけど、失礼だからやっぱりまた謝るわ。ごめんなさい。アタファミの話もリベンジする気も失 せたし。さようなら」
そう言って踵を返した日南葵は駅の方向へと歩き出す。その表情がちらりと見える。
──こんな失礼な女とはすぐにでもサヨナラしたいと思っていたはずの俺がここで思わず口を開いてしまったのは、さっき言われたことにカチ ンと来ていたからなのか、それとも振り返りざまに一瞬見えた日南葵の表情が嫌悪というよりも落胆というふうに見えたからなのかは、自分でも判断がつかな かった。
「......ちょっと待てよ。自分だけ言いたい放題言いやがって」
日南葵が足を止め振り返る。
「まだなにか?」
つい口走った形で引き止めたため、正直なにも考えていない。焦りでイマイチ日南葵の表情が読めない。嫌悪しているようにも期待しているようにも見えてしまっている。頭が真っ白でただ指先が冷たくなるのだけを感じる。
「お前、俺が人生で負けてるとか言ってたけどな」
これから自分がなにを言うのか自分でもわからない。心臓の音が肺で響いて脳を揺らす。
「お前みたいな初期パラメーターが高いやつには俺の気持ちなんてわかんねーんだよ」
日南葵が俺の言葉を繰り返しているのか、ごく小さく口を開いているが、なにを言っているのかもう聞こえない。自分がどんな声色でしゃべっているのかもよくわからない。
「人生は不平等なんだよ。俺みたいに、ブサイクで、体格も良くなくて、考えすぎて一歩が踏み出せなくて、メンタルが弱くて、なにしてもバカにされて、コミュ力も自信もないような人間はな、どうやったってお前らみたいな強い人間には勝てないんだよ」
こんなことを赤の他人に言うのは初めてかもしれない。
「でもいいだろそれで。不平等なんだから。がんばったって実らない。実るならがんばるよ。でも人生にはルールがねーんだ。実らない。正解が ない。クソゲーなんだよ。じゃあがんばりようもないだろ、正解がねーんだから。そもそもな、お前らリア充みたいな人生なんて嫌いなんだよ。根拠のない自信 ばっかりあって、群れて楽しいふりばっかしやがって」
決壊したダムはもう堰き止めることができない。
「根拠があっても自分に自信なんて持てねーんだよ。群れても独りぼっちな気がして楽しくなれねーんだよ。そういう生き方が体に染みついてん だよ。原因なんて一つもわかんねーよ。悪いか? 気がついたらこうだった、これが俺なんだよ。俺はいいんだよこれで。このぼっちだけどそれなりに楽しい毎 日で、これでいいんだよ」
拳を握りしめる。
「......だから価値観を押しつけるんじゃねえっ!」
──スーッと熱が引いていく感覚。頭からチカチカとしたもやが取り払われ、視界に冷静さが取り戻されていく。次第に日南葵の表情が見えてくる。
日南葵は無表情で、ただこちらをじっと見ていた。
「......負け犬の遠吠え」
そして日南葵はぼそっと、ただ事実を指摘するような口調で言った。
「なんだよ、それ」
「負け犬の遠吠えって言ったのよ。リア 充みたいな人生は嫌い? リア充の人生を送ったことがないのに? バカみたい。なんで嫌いだってわかるのよ? リア充の楽しさを味わった上で、でもそれは 楽しくない、って言うなら筋は通ってるわ。けど、あなたは味わったことないわよね? だったらそんなのただの酸っぱい葡萄 、負け犬の遠吠えね」
......似たような理屈を、俺は知っている気がする。それも、ごく身近で。
「私はね、負けたくせに努力せず、それを正当化する奴が一番嫌いなのよ」
本当に、馴染みのある理屈だ。
でもな、それとこれは違うんだよ。
「言いたいことはわかるよ。でもな、ちげーんだよ。人生はな、キャラ変更ができねーんだ」
「キャラ?」
「産まれた瞬間にな、もうある程度決まってんだよ。俺だってお前みたいに、顔が良くて、勉強も運動もできる強キャラだったらもうちょっとうまくやるよ。でも、そうじゃねーんだ。屁 理屈 とか、ひねくれとか、そんな人生にあんまり関係ないどころか、考えすぎて自信とやる気を失うようなパラメーターばっかりに能力値が振られて、どうしようもねーんだよ!」
日南葵はただ黙って俺の目をまっすぐに見据えている。
「キャラ差なんだよ。だからいいだろ、これで。それに俺は、そこそこ本気で、これはこれで楽しいんだよ。だから! ほっといてくれよ......」
「......キャラ差、ね」
瞳が一瞬斜め下を向く日南葵。かと思えば突然、
「来なさい」
俺の腕をつかむ。
「え?」
俺はただ困惑のまま、半ば以上無理やりに、日南葵にどこかへ連行されていくのだった。
***
そして俺はいま、背中を丸めてちょこんと正座をしたまま、所在なくこの甘い匂いの出処 を目で探している。芳香剤やお香のたぐいは見当たらない。しかしなにか原因がないとありえないくらいに甘く心地 いい匂いだ。あるのは白いシーツと薄黄色のタオルケットが敷いてあるベッド。その上においてあるピンクの枕 と黒くてもこもこした生活感のあるパジャマ。オレンジの可愛いペンと黒いライトだけがのっている楕円 形 の黒い小さな机。真っ白なタンスと本棚。スタイリッシュな黒い勉強机。薄いピンクのカーペット。その他は暖色を基調としたシンプルでどこか可愛 げと清潔感のある生活雑貨くらいだ。あらかじめスプレーなりなんなりをする暇もなかったはずである。
だとしたら──布か?
洋服やベッドシーツ、タオルケットやカーペット、それらに染みついた匂 いが部屋の匂いとして昇華されているとしたら納得できる。しかしそれを実現するためにはこまめな掃除と洗濯、手入れが必要なはずである。先ほどの豹変 した日南葵を見ていなければ、なるほど、さすが完 璧ヒロイン日南葵だと納得するところであったが、もう、そうはならない。
なんだあの女。言いたい放題言いやがって。言いたくもないこと言わせやがって。大体、よく知りもしない同い年の男子を突然無理やり自分の部屋に連れ込むとかガサツにもほどが......俺、日南葵の部屋に上がり込んでいる!
薄々気づいていて目を逸 らしていたけどこれは大変な状況だ。女の子の部屋に上がったことなんて初めてでそういうときの所作がわからないのでとりあえず正座をしているがたぶん色々と間違っているであろう。当の日南葵は「キャラ差って言ったわよね?」という謎 の言葉を残したまま数分帰ってきていないしこのままだと精神的に窒息して死んでしまう。
ごちゃごちゃ考えてなんとか自分をごまかしていたがもう限界だ。誰か俺に安寧 をくれ。トントントン。と階段を登る音。ああ、そういえばこの部屋二階なんだっけ。それすらも忘れるくらいにはパニクっている。日南葵が戻ってきたのだろう。ガチャ。部屋のドアが開かれる。
「......。えーっと、おじゃましてます」
見知らぬ女性が入ってきた。なので挨拶 をする、くらいのコミュ力というか礼儀は俺にもある。日南葵と比べたら正直あまり美人ではないが、顔立ちにその面影があるといえばある。おそらく妹さんとかであろう。あの完璧美少女がこんな冴えない男を部屋に入れているなんて何事だ、とでも思われているのだと思う。わかっているから口には出さないでほしい。
「どうかしら?」
「はい?」
「中の上、ってところじゃないかしら?」
「えーっと、なにがですか?」
「......あなたは本当に女性経験ってものがないのね」
「な......?」
どうして見知らぬ女性にそんなことを急に言われなくてはならないのだろうか。日南家には突然キモオタに失礼なことを言う血でも流れているのだろうか。
「スッピンよ」
「え?」
「私は日南葵よ。化粧を落としてきたのよ。あなたはどれだけ鈍感なの?」
「............えええぇ──っ!?」
たしかに面影があると思いはしたが、それにしたってこんなに変わるものなのか。厚化粧って印象もなく、むしろナチュラルなイメージだったのに。一体どういうことだ。
「あなた、キャラ差って言ったわよね?」
「......? 言ったけど」
「これでわかった?」
「......なにがだよ?」
「鈍感もここまで来ると罪よ? 見た目っていうパラメーターは努力でなんとでもなるってことに決まってるでしょ」
「ああ」なるほど、そういうことね......。
まあ、言いたいことはなんとなくわかった。
けどどっちにしろ、そんな説教をされる筋合いはない。
「もしあなたが弱キャラだとしてもあとから伸ばせる。見た目の初期パラメーターは人生を放棄する言い訳にはならないわ」
はあ、なんだかなあ。違うんだよ。
「......なんだ? お前はそんなありがちな説教をするために俺をここに連れ込んだのか?」
「まあ、簡単に言えばそうね」
「余計なお世話だ。言っただろ、お前と俺は状況が違う。まず俺は男で化粧もできないし、それ以前に初期ステータスが違うんだ。そもそもの顔の作りが終わってんだよ俺は。そんなもんあとからどうにかできるかよ。弱キャラってのはそういうことだ。......はあ、もう帰る」
そう言ってカバンを手に取り立ち上がる。さっき言いたいことをぶちまけたからか、最初よりも緊張がなくなってきていた。
「本当になにもわかってないのね」
「......まだなにか」
「人間の見た目で重要な要素ってなにかわかる? 三つほど挙げてみて」
「帰るって言ってんだろ。まだ付き合わなきゃならんのか?」
「そうやって人生だけじゃなくちょっとした戦いの場程度からも逃げるのね。ホント負け犬」
よくもまあ人をいらだたせる言葉がこうもスラスラと出てくるもんだ。
「わかったようっせーな、そこまで言うなら挑発に乗ってやるよ。人間の見た目で重要な要素? 元々の顔の作りと、なんだ? 身長と、体重とかだろうな」
「ぜんぜん違うわ」
全否定。
「じゃあなんだよ」
「表情と、体格と、姿勢よ」
体格って俺そこそこいいとこ突いてたじゃねえか。
「......いや、顔の作りは」
「そんなの大した問題じゃないわ」
「いや、そんなわけが......」
見た目において元々の顔が重要じゃない? そんなの嘘だね。証拠は俺の人生。
「それじゃあこれを見てもらえるかしら?」
そう言って顔を両手で隠す日南。
そのまま体を伸ばしたあと、パカっと両手をいないいないばあ、の要領で開く。え。
「どうかしら?」
「......それなにがどうなって......」
手を開いたそこには、隠す前と比べて五割六割増しの愛想がある、かなりの美人がいた。日南葵をそのままスッピンにした、という印象だ。いや、さっきもそうのはずなのだが。
「わかったかしら? 表情よ」
「いや......表情ってレベルじゃないだろ」
「じゃあこれをなんて説明するのよ? すり替わりの手品? それとも一瞬で整形?」
そう言いながら、今度は手で隠さず顔から力を抜いていく日南。さっきの自称中の上の顔に戻る。かと思えば徐々にかなりの愛想のある美人へと変わっていく。それを何度か繰り返す。
「おお......」
なんかすごくいい芸を見ているような気分。正直これは結構すごい。
「これだけのことができるのは私が特別努力したからだけど」そう言いながらゆっくり交互に変わっていく。「ちなみに、顔だけじゃなくて姿勢も動かしているのがわかるかしら?」
「え?」
そう言われてよく見ると顔から力が抜けると同時に猫背に、愛想がある美人になると同時に背筋がシャンとしている。
「姿勢も顔の印象を変えるのよ。表情と姿勢、これを完璧 にするだけで、『リア充っぽい容姿』には十分なれるわ。まあ私はそれでも素材が恵まれているほうだからここまでの美人になれるわけだけど」
「まあご自分に自信がおありのようで」
「そうね、そのとおり。自信っていうのも大切ね」
「そういう意味で言ったんじゃねーよ。......で? なんだよそれが」
「わからないかしら?」
......わからなくはない。この流れでこれを見せてきたってことはまあ、つまりは。
「大方、ブサメンでもフツメン以上にはなれる、とでも言いたいんだろ」
「察しがいいわね」
「で、だからなんだ? だからお前もがんばれとでも言いたいのか? 言ったろ余計なお世」
「そんなことじゃないわ」
「じゃあなんだよ?」
俺がそう言うと、日南は俺の瞳、いやその奥の奥の脳すらを覗 きこむような、真っ直ぐで深い視線を送りながら、こう言った。
「だからこそ、今のあなたのような人間は、世界で一番心が醜いってことよ」
「な......」
なんだよ急に。
「『今の』あなたのような人間は、ね」
「い、今の? ......そうやって意味深なこと言って誤魔化そうったって」
「ここからは私の自己満足の説教になるわ。聞き流してくれても構わない。私はあなたに命令をすると思うけど、結局最後に決めるのはあなたよ。すべて無視してくれてもいい。それを前提で聞きなさい」
日南葵は俺の言葉を遮り、空気を変えるようにそう言った。茶化す雰 囲気を微塵 も感じない語調と視線。コミュ力のない俺でも、いま日南がこれ以上ないくらいに真剣だってことがわかるくらいの。
「......お、おう」
俺は同い年とは思えないその腹の据わった静かな迫力に圧倒されながらそう言う。
その肯定の言葉を確認すると日南は、さっきの力の抜けた顔でも愛想のある美人の顔でもない、どこか憂いと人間味のある表情で言葉を紡 ぎだした。
「......あなたはこう言ってたわよね。自分にはコミュ力も自信もない、それに比べてお前は初期パラメーターが高いんだ、って。でも、 そんなことはないわ。私は本当にただの凡人、いや、それ以下として生活してきたわ。......少なくとも小学校まではね。だからこそ、ハッキリ言うわ。 あなたが言うコミュ力だとか自信なんてもの、すべて努力でどうとでもなるものよ。それは、中学一年生からの私が証明してるもの」
自分の中に確かな根拠があることを感じさせる強い口調だ。
「......理不尽で不平等だとも言ってたわよね。けれど、そうじゃないわ。人生っていうゲームは、いくつかのシンプルなルールを持って動いてるの。それが複雑に交差しているから、あなたは把握できていないだけ」
信じる信じないの有無を言わさず、内容が頭に入ってくる感覚。
「私はnanashiを尊敬していた。私はあらゆることを努力だけで勝ち抜いてきたの。だから、その努力のやり方や、継続することに関しては誰 にも負けない自信があったし、それで結果を出せる自信があった。けれどアタファミでは、どうやってもnanashiには届かなかったわ」
最低限の身振り手振りで、ただ言葉だけが紡がれていく。
「だから、nanashiは私よりも努力ができる人間だと思っていたし、そう思っていたからこそ尊敬していた。でも、蓋 を開けてみたらこうよ。人生においてのnanashiは、負けるどころか、ろくに戦おうともせず、しかも生まれ持ったものを言い訳に逃げ続けるだけのくだらない人間だった。いいえそれどころか、体験したことのない楽しさをつまらないものだと決めつけて、自分を正当化する、醜 い負け犬だったわ」
ここまで言われても、不思議と怒りが湧 いてこない。それはこいつの真剣な迫力に圧倒されて──というよりも、俺がいまこいつに、どこか自分に似た部分を感じてしまっているから、という気がした。
「私はすごい人間よ。あなたもそう思うでしょう? 日本にここまですごい十六歳がいるのかと思うくらいだわ。でも、そんな私にあなたは、一 分野において勝ってるのよ。それも、同い年で、男女の有利不利がない分野で、よ。──だからこそ言わせてもらうわ。そんな私に勝っているあなたが、私が唯 一尊敬していたnanashiが、人生というゲームではこんなひどい有様なのが、心底ムカつくの。許せない! 最悪よ! 私に勝っている人間がくだらな かったら、私までくだらないみたいじゃない!」
そしてここまで言われても傲慢だと思えないのは、こいつの背後にある血の滲 むような努力を、言外から感じ取っているからだろう。
「優れたゲームはいつだってシンプルなものだ、これは私の持論よ。そして、人生というゲームはルールがないように見えて、実はシンプルな ルールだけが組み合わさってできた美しい構造になっている。あなたはクソゲーだって言っていたけれどとんでもない、人生は、これ以上ないくらいの神ゲーな の。あなたはまだそれをわかっていないだけ。......nanashiともあろうものが、こんな素晴らしいゲームで敗北していていいのかしら? ゲーム のせいにして逃げていていいのかしら? 負け犬の遠吠えのままでいいのかしら? ......友 崎くん。私はあなたに一つ提案、いえ、命令するわ」
枝葉の部分はまったく違えど、根本の考え方がここまで似ている人間は初めて見た。
だからこそ。
「私はあなたにこのゲームのルールをひとつひとつ教えていくわ。だから──」
自分でも嫌なほどに、こいつの言葉に納得できてしまうのだ。
「この『人生』という『ゲーム』に、本気で向き合いなさい!」
これが、土曜日に起きた、大きな事件だ。
***
「まあ、言いたいことはわかった」
他人からここまで建前もクソもなく本音で説教をされたのは初めてかもしれない。
「ならよかったわ」
日南葵はまだ、心の底を反映させたような表情を崩さない。
「でもわからないこともある」
だからこそ、こちらも適当な対応はできない。それが肯定でも否定でも、だ。
「俺はこの人生というゲームはクソゲーだと思っている。根拠はいくらでも挙げられるし、それにかなりの確信を持ってすらいる」
強キャラが得をし、弱キャラは搾取される。シンプルで美しいルールはない。クソゲーだ。
「ええ」
「だから、お前の言う、人生は神ゲーだとか、言い訳だとか、負け犬の遠吠えだとか、そういうのにはいまいちピンときてない」
「そう」
「だけど......」
「だけど?」
中村が自分の敗北をゲームのせいにしていたこと、それを思い出しながら。
「努力しないで、ゲームのせいにして負けを誤魔化すことが世界一醜 い、ってのには俺も同意だ。俺もそういうのは一番嫌いなんだ」
俺がそう言うと、日南葵はニヤリと口角を上げた。
「へえ。さすがはnanashiね」
「......けど本当にゲームのせいって場合もある。キャラ差をテクニックでどうこうできるゲームも多いが、中にはキャラ差が覆しようもないゲームってものも存在する」
「人生はその『キャラ差が覆しようもないゲーム』だって言いたいのね?」
「そうだ、だから人生はクソゲーなんだ」
「あなたの中ではね」
「かもな。でもたしかに俺はお前から見た人生の見え方を知らない」
「もちろんそうね」
「ああ。もちろん、当たり前だ。人は他の人間の見え方を知ることなんてできない。ゲームなら試しに強キャラを使ったりもできるけど、人生は他人の見え方を試したりはできない。だから、俺は俺の見え方を信じるしかない」
「ええ」
「だから他人が『人生は神ゲーだ』って言っても、それはそいつが強キャラだから言ってるだけだと判断する。俺は他のやつに人生は神ゲーだって言われても揺らがない」
俺は日南葵の目を真っ直ぐ見る。
「それが俺の考え方だ」
日南葵は今度こそ表情にハッキリと落胆を浮かべる。
「......そう。それならいいわ。最終的に決めるのはあくまであな」
「けど」
言葉を遮る。
「......けど今回だけは、お前の話をもう少しだけ聞いてみてもいいかもしれない、と思い始めてる」
もう一度グッと日南の目を見てやる。うう。美人だ。
「それは、どうして?」
「それは......」少しだけ考えて。「お前の言うことが、なんというか、俺に似すぎていたからだ。こんなにリア充でこんなに美人なくせに。似ているやつの言うことなら少しは参考になるんじゃないか、ってのが一つ」
「ふうん」
「まあ、でも一番大きい理由はそれじゃない」
「......なによ」
日南葵は、興味と訝しさが混じった眼差 しを俺に向けた。
「言ってきた相手が、俺が日本で唯一認めたゲーマー『NO NAME』だったからだ」
そう言って、俺は更にグッと眼力を強める。
「............」
「............」
「......ダッサ」
あれ? 決まった! と思ったのに。
「......待て。ダサいってなんだよ」
「最後の最後で変に格好つけるからダサいって言ったのよ」
「勇気を振り絞ってやってみたんだろ、察しろよ」
「知らないわよ。しかも結局大したことは言ってないわ」
「コミュ障のがんばりをちょっとは尊重しろよ、俺は褒められて伸びるタイプだ」
「なにか褒められるようなことをした? むしろガッカリね。nanashiたるものがこんな簡単に自分の意見を変えてしまうなんて」
「は? どこが簡単にだよ。しかも俺は意見を変えたんじゃない。もう少し話を聞いてみてもいいと思っただけだ」
「それが変えたとなにが違うの? 私には同じに見えるけど?」
「ちげーよ。俺はゲーマーを信頼してるんだよ。しかもお前は日本で二位だ。ってことは世界で自分の次に信頼の置ける人間が『あなたには知らないことがある』って言ってきてるってことだろ。ならとりあえず話だけ聞いてはみる、それだけだ」
「それが意見を変えたってことじゃない?」
「だからちげーよ。とりあえず内容をもっと聞いてみて、自分に納得がいくかどうか確かめるってだけだろ。まだまだ受け入れたわけじゃない。納得いかなかったら受け入れねーよ」
「でもとりあえずは聞くのね」
「そりゃそーだろ。俺はnanashiだぞ。一回ゲームで手合わせすればお前がいかに血の滲む努力をしたかぐらいわかる。聞く価値があるって判断したんだよ」
「......ふーん......ならいいわ」
ならいいのかよ。
ここまで言い合って、クラスメイトと途切れずに会話できてる自分すごい......と思いかけたが、俺の中でこいつはもう日南葵 っていうよりもNO NAMEだからやっぱすごくないかも。
「じゃあ教えてくれよ。このゲームのルールってやつをさ」
『人生』が本当に、神ゲーと呼ぶに相応しいものなのかどうかを。
「はあ。友崎 くん、あなたは本当になにもわかってないのね。言ったでしょ、ルールは複雑に交差しているって。そんな簡単に教えられるわけないじゃない」
「教えられない? なんだよそれ、話が違うじゃねーか」
「......じゃあ聞くけど、あなたは新しいゲームを買ってきて、そのゲームをうまくなろうと思ったら、説明書を読み込む?」
「なんだよ急に?」
「いいから。どうなの?」
「......いや、まあ説明書も読むけど、うまくなるためにはプレイしてみることだよな。触れてみないと本質はわからないからな」
「でしょう? 一緒なのよ」
「一緒?」
「説明書を読み込んだところでゲームはうまくならない。人生もそれと一緒なの」
「人生も?」俺は一瞬考える、しかし答えを出すより早く日南が喋りだす。
「ゲームでは、説明書はあまり読まずにプレイしてみるのよね?」俺は頷く。「それと一緒。プレイしないとうまくならないのよ」
......いや、それはおかしいだろ。だって俺は一応プレイはしてみてるだろ。
「ちょっと待てよ、俺は人生を実践した上で散々つまずいてきたからこうなってんだぞ?」
「そのとおりよ。じゃあ、ゲームでつまずいたとき、あなたはどうする?」
「え、ゲームで? まあ、ジャンルにもよるけど......レベル上げか、練習か、攻略サイト見るかとか、まあその辺だけど......」
「さすがね。正解よ」
「は?」
「人生でも、レベル上げをするか、練習をするか、攻略サイトを見るかすればいいの。それが『人生』というゲームの根幹よ」
そう言ってニヤリと笑う日南。
「......ちょっと待て、いやまあ言いたいことはわかる。レベル上げ、つまり努力しろってんだろ? まあ、たしかにそれしかないだろうよ」
「そうね」
「でもな、それが他のゲームみたいにうまくいかねーんだって、人生ってゲームはさ。努力しても叶わない。初期状態で限界が決められて、覆 しようがない。そんなクソゲーの構造なんだよ、それが人生なんだよ。まあ、お前にはわからないんだろうな......強キャラだから」
「本当にわかってるの?」
「なにをだよ?」
「レベル上げは自分磨 き。見た目から内面から、自分の持っている基礎能力を上げる作業。練習は世渡りにおける技術の向上、つまり具体的で実用的なスキルを磨くの。その二つで、人生というゲームの大半はクリアできるわ」
「......いや、だから言いたいことはわかるって。けどな、そんなに甘くないんだよ。俺みたいな弱キャラにはな、レベル上げでも練習でもどうにもならない問題が、山ほどあるんだよ」
「ええ。あなたがいままでそれをしてきたかどうかは置いておいて、そういう状況もあるわ」
「いやそういう状況もあるのかよ。じゃあダメじゃねーかよ」
「けれどそのどうにもならない問題、つまり『難しいステージ』に当たったときでもね、解決する方法があるのよ。言ったわよね? レベル上げと、練習と......もう一つ」
ってことは......。
「それが」
「ええ。攻略サイト、よ」
「......じゃあなんだよその攻略サイトってのは? 自己啓発本とかハウツー本とか、そういうことか? そういうのを見て対処すればなんとでもなる、とでも言いたいのか?」
「あら」日南はおかしそうに笑いながら。「まあ、それでもいいけれど。けどもっと確実な、これだけに従えば絶対に大丈夫、っていう攻略サイトが、世の中に一つだけあるのよ」
「なんだよそれ? そんな都合のいいもん、あるわけないだろ」
「それがあるのよ。私の知るかぎり、世の中にたった一つだけ、ね」
「......だからなんだよそれ? そんなもんどこにあるんだよ?」
俺が尋ねると日南は「それはね」と言い、人差し指で自分の頭をゆっくりと、二度叩いた。
「ここ、よ」
茶化すようでいて自信に満ち溢れた表情。当然でしょう? とでも聞こえてきそうな。
「......お前、なんというか、よくそこまで自分に自信が持てるな?」
はは、と笑ってしまう。ここまで突き抜けられるといっそ清々しい。
「当然でしょう? 私はね、これまで必然に必然を積み重ねてこのゲームを攻略してきたの。だからね。結果に対する原因は、すべて頭に叩き込まれているわ」
言っていることがわかるようなわからないような。
「結果に対する原因、ねえ。......それがお前の言う人生のルール、か?」
「ええ、そうよ」
「ふーん......」
俺の知っている人生のルールは『強キャラが得をし、弱キャラは搾取 される』だ。ひねくれ者や怖がりは気持ち悪がられ、人を傷つけると強く見られる。そんな腐ったルールしかないから『人生』はクソゲーなんだ。しかしこいつは『人生』にはそれ以外の、それによって『人生』を神ゲーにすらしてしまうルールがあると豪語している。
実際に結果を出していて、説得力もある。根っこの考え方が俺に近くて、納得もできる。だから、こいつの言うことを受け入れる──つまり、この『人生』という『ゲーム』に本気で向き合う。それをしてしまってもいいように思えた。
けど違う。違うんだ。こいつは違う。たぶん、俺はこいつとわかりあえない。
だって、そうだ。こういうやつは結局、そうなんだ。俺は試すように質問を投げかける。
「......なあ、人生は神ゲーなんだよな? じゃあ聞くけど、どのくらい神ゲーなんだよ?」
そう。『人生』というゲームを持ち上げる人間と俺とでは、ここに大きな断絶があるのだ。
「どれくらい? ......そうね、私が知るかぎり......」
上を向き、少しの間迷って。
「ぶっちぎりで一位、じゃないかしら」
ほら見たことか。
そうなのだ。『人生は神ゲー』とか言って持ち上げるやつは結局、他のゲームすべてをそこから大きく下に置いている。都合よく『人生』を 『ゲーム』にたとえて見せただけで、実のところその中で『人生』だけを特別視している。つまり、ゲーム好きの人間の視点に降りてきてやったという偉そうな 視点だ。ハナから他のゲームを『人生』よりもくだらないものと決めつけて、見下して、舐めきった上で、ゲームにたとえているのだ。
やっぱりこいつもそうだった。俺は失望し無言でカバンを手に取り、立ち上がる準備をした。
その時だった。
「うん......やっぱりそうね、人生はぶっちぎりの一位タイね、アタファミと並んで」
日南葵が、不意を突くくらい自然で、拍子抜けするくらい無垢 な声色で、そう言った。
「え?」
「うん、少し迷ったけれど、やっぱりどっちが上とは決められないわね。本当はここで『人生』のほうが上、とでも言えたらいいんでしょうけど。......一位タイね、悔しいながら」
──あっけにとられてしまった。一位タイ? 人生と、アタファミが?
いまこいつは、そう言ったのか? あのぶっちぎりのリア充の日南葵が?
「失望した? まあたしかに、あなたはアタファミを極めているものね。じゃあ、同じくらいのおもしろさのゲームをもう一つやってみる価値なんて、ないかもしれないわよね」
「......お前」
失望なんてとんでもない。俺はいま不覚にも──。
「そうよね、すでにあなたは一位級のゲームでトップを手にしている......それじゃあ私はそれ以上の価値を提供しなくちゃいけないのに......ああ、間違えた。ホント、アタファミのことになると暴走するクセはなんとかしないと......」
そんなことを早口でつぶやき、そしてこちらに向き直る日南。
「まあ、答えを出すのはあなた、って私は言ってしまったわけだし、どうしてもらっても構わないわ。ここで嘘をついて信頼を得るのも違うし、仕方ないわね」
違う、違う。俺はいま、不覚にも──感動してしまっていた。
「俺は......」
言葉にしてしまいそうになってやめた。俺はいままで、誰にも知られず、ただ自分がやり たいからという理由だけで、アタファミの練習をし続けてきた。強くなりたかった。それをすることが自分にとっての満足だったし、幸せだった。それでよかっ た。楽しかった。けれど、そんなのはたぶん、周りの誰にも認めてもらえないものだという自覚もあった。ネットですごいって言われるくらいで、ゲーム好きの 友達もいないし、親だってそんなのは褒めてくれなかったし、それでクラスで人気者になんてなれるはずもな い。俺は運動もできず、もちろん彼女なんていない。そんな中、アタファミに時間を割き続け、結果を出してきた。すべて、俺だけのために。本当に、俺はそれ でよかった。誰にも認められなくていい、そう思っていた。
けれど今こいつは、俺が知るかぎり最強のリア充であるこいつは、『人生とアタファミは、同じくらいおもしろいゲームだ』と言った。つまり『アタファミは、人生と同じくらい価値がある』と、そんな意味の言葉を、当たり前のように言い放ったのだ。
──『人生』のことを誰よりもよく知るこいつが、だ。
これに感動するなんてたしかに矛盾 だ。俺は『人生』なんてくだらない、クソゲーだ、そう思ってきた。だから、そんなクソゲーと同価値なんてふざけるな、アタファミのほうがおもしろい、アタファミは神ゲーなんじゃ、なんて反抗するのが筋の通った意見ってもんだ。
けど俺は、世間的に最も認められているゲームである『人生』。その『人生』で俺が知るかぎり誰よりも結果を出しているこいつに、アタファミはそれと同じくらい価値があると言われて──そうは思えなかった。
誰 にも認められなくてもかまわないと思っていた努力。そしてその思いのとおり、誰にも認められなかった努力。つまり俺による、俺のためだけの努力。そこに不満はないと思っていたし、あってはならないとすら思っていたかもしれない。それが今。
とてつもなく、肯定されてしまっていた。
「なによ? その顔」
「......俺は」気持ちを悟られないように、俯 きながら続ける。「俺は、ルールがあるものはすべてゲームだと思ってる。ルールがあって、それに基づいた結果があれば、全部ゲームだ」
日南葵は黙ったまま、俺の次の言葉を待っている。
「もし『人生』にそれがあるなら、『人生』だってゲームだ。そしてもし、そのルールがシンプルで美しくて奥が深ければ神ゲー、そうじゃなければクソゲーだ。......お前も同じ考えってことだよな?」
「ええ。まさにそのとおりね。ルールがある、だから『人生』は、れっきとしたゲームよ。そして......そのルールがシンプルで美しくて奥が深いから、神ゲーなのよ、『人生』はね」
「......そうか。わかった」俺は顔を上げる。「......だとしたら」
「だとしたら?」
そして日南を真っ直ぐ見る。
「ゲーマーの血が騒ぐな」
日南の顔が驚きの色に変わる。自分がどんな顔をしていたのかはわからないが、それを見た日南が驚くような表情であったらしい。
「お前の言うことをすべて信用したってわけではないけど」
俺は目の前にいるゲーマーに言葉を向ける。
「目の前にゲームがある。そのゲームは難易度が高いが全世界の人間が全員参加しているほどプレイ人口が多い。俺はそれを少しだけプレイして クソゲーだと判断していたけど、どうやら確かなスジからの情報によると、実は神ゲーらしい。そして目の前にその上級者がいて、効率のいい攻略法を教えてく れると言っている。なら......」
あっけにとられた様子の日南を無視して言葉を続ける。
「それをゲームとしてプレイしない理由はない」
言いおわり日南のほうを見ると、さっきのあっけにとられた表情の日南は目の前から消え去り、そこには熱を持った笑みを浮かべるNO NAMEの姿があった。
「......さすがnanashiね」
「まあな」
「もうすっかり信用してくれたのかしら?」
「まさか。この手でプレイしてみて神ゲーだと確かめるまで、信用なんてしねーよ」
そう。信用したわけじゃない。
けどこいつは俺と同じゲーマー的な思考で、ほかのゲームと人生をちゃんと同じ土俵にあげた上で、人生は神ゲーだと言った。──アタファミと同じくらい、神ゲーなのだと。
だったら、とりあえず試すくらいならしてやってもいいと思った。
「けど、ゲームなんてそんなもんだ。やりこんでみるまで神ゲーかどうかの判断はできない。プレイしてみるなら、最初から本気でやらないと意味がない。言い訳はしたくないからな」
「そのとおりね」
日南は笑いながら頷いた。
「だから、そのリア充になるための、『人生』というゲームを攻略するためのプレイングってのか? それ、試しにやってみることにするよ。ただ、手は抜かない。それでいいだろ?」
日南はもちろん、とまた頷く。
「で、なにすればいいんだ? 俺は」
「あら、いいやる気ね」
なぜか嬉しそうにそう言った日南はそのまま立ち上がり、勉強机の引き出しを漁りだした。
「なにやってるんだ?」
「人生はとても自由度が高いゲームよ」
「うん? まあ、そうだけど」
「自由度が高いゲームで最初に行われることといえば?」
「えーと?」
自由度が高いゲームねえ。車を奪って一般人を殺せたりするゲームとか、全裸で街をうろついたり店のものを盗んだりできるゲームとかか。
それらに共通することって言ったら......。
「まあ、キャラクターメイクだよな」
「おにただ」
真顔で指をさされてそう言われた。
「え? なに? おに? ただ?」
「だからあなたが最初にやることも、キャラクターメイクなの」
「いや、なにいまの」
「......なんの話? 気のせいじゃない?」
目をそらしてぶっきらぼうにそう言ってくる。なんだいまの。どっかで聞き覚えあるような。
ていうか気のせいってなんだよ、おい、と言っても無視された。......話進めるしかなさそう。
「......えーと、キャラクターメイクだったよな?」
「ええ」
平静な表情で日南。なかったことになってる。よくわからん。まあいいか。
「けど、俺というキャラクターはもうこうして完成してるぞ? ......ま、ブサイクなキャラとして、だけどな。ははは」
「考えが甘いわね。これを使うのよ」
俺の小粋なジョークすらも無視しながら日南は、引き出しの中から白いものを取り出した。
これは......。いや、待て待て。
「......おい。まさかこれで常に隠しとけとでも言うんじゃないだろうな」
「そんなわけないじゃない。もっと有意義な使い方があるのよ、これにはね」
そう言う日南の右手に持たれていたものは、花粉症用の大きなマスクだった。
***
「......だいま......」
誰に向けるわけでもなく、一応家についたら言う習慣になってるから言う、くらいの声量で帰宅の挨拶をする。自分の部屋に行くためには通らなければならない居間に入ると、俺のいつもと違う様子に気がついた母親が声をかけてきた。
「文也それ、風邪でもひいたの?」
「ん、あ、ああ」
違うけど事情を説明できるわけもないので曖昧に肯定する。
「マスクくらい言えば家にあるのに。わざわざ自分で買ったの? それ」
「ん、ああいや、風邪ひいたって言ったら友達がくれた」
「あら。そうなの? へえ......」
驚いたような感心したような表情。口に出さずとも、あんたにも風邪をひいたら無償でマスクをくれるような友達がいたのねえと言いたいのが手に取るようにわかる。これが親子の絆 ってやつだ。
「まあ、おかえり。そろそろご飯にするから先に」
「わかってるよ」
いつも帰ったらすぐ言われることだ。風呂に入ってこいって。はいはい、と言葉を途中で遮 り流れるように風呂へと向かう俺。
「あ、でも今は......」
ガラッ。
「は、はいっ!」
脱衣所にいた下着姿の妹に困惑し、返事をするという謎の反応をしてしまった。
「......お兄ちゃんってホントきもいよね」
そんな俺を尻目 に、特に驚いた素振りもなく淡々と上のスウェットを着る妹。黒くてもこもこしてダボッとしたサイズのやつだ。その控えめな胸にはそぐわない背伸びした黒いブラが、スウェットの下に隠れる。
「嘘でしょ」
「は?」
下着に上のスウェットだけ着た状態で俺に向き直り突然意味のわからないことを言う。いや下ははかないのかよ。
「それ」
顔の下あたりを指さしている。
「マスク?」
「友達にもらったとか言ってたけど」
「ああ」
そういうことね。
「お兄ちゃんそんなのくれる友達いないじゃん」
「お前な......」
妹が同じ学校の一学年下に在籍しているとこういう面倒くさいことが起こりうる。
「バレる嘘はつかないほうがいいよ?」
こいつは一年生だが、血がつながっているとは思えないその無駄な容姿の良さや性格の明るさによって先輩方、つまり俺の同級生にも知り合い が多く、それゆえに俺の情報もそこそこ入ってくるようなのだ。というか、それにしたってなんで俺が妹に嘘の作法について教授されねばならんのだ。
「俺にだってそのくらいの相手はいるんだよ」
実際貰い物だし嘘はついてない。
「じゃあ誰? くれたの」
「なんでそんなこと言わなきゃ」
「ほら、言えない、やっぱ嘘」
はあ。めんどくさい。
「日南葵」
「......」じぃっと俺の顔を覗き込む妹。嘘はついてないぞ。参ったか。「はぁ......」
なぜかため息をつかれた。
「なんだよ」
「あのね? そういうの友達って言わないから」めちゃくちゃ呆 れた口調だ。「日南先輩がマスクくれたのは、日南先輩が天使だから。わかる? みんなに平等に優しいの。それを友達とか......。いいとこクラスメイトでしょ、言うなら」
演技掛かった憐れみの口調で子供っぽく説教される。いや俺だって友達だなんて思ってねえよ。友達だとしてもそれは戦友としてだ。天使なんてもってのほか。ヴァルキリーならわかる。
「お兄ちゃん、勘違いして好きになるとかやめてよ? 恥かくの私なんだからね?」
せめて言うなら私も恥かく、だろうが。なんて自己中思考。
「誰があんなガサツ女好きになるかよ」
「......え? なに?」
「なんでもねーよ」
「あーもう! 普段からモゴモゴしてるのにマスクしてると余計聞こえない!」
そう言いながら勢いよく俺のマスクを剥ぎ取る妹。あ。
「......ホント意味わかんない。きもい」
そう言って不機嫌そうに俺の横を通り過ぎていく。......いや、これは無理もない。
「そりゃ意味は......わかんないわな」
一人取り残された脱衣所の鏡に写っているのは、無駄にマックスまで口角を上げた笑みを浮かべるキモい男の姿であった。
***
日南が手に持っているマスクを、俺は困惑の目で見ていた。
「一部を隠す以外になんに使うんだよ、それを。......っていうか」
そしてそれ以上に、俺は周囲の風景に困惑を強めていた。
「......なんで場所を変えたんだ?」
机の引き出しからマスクを取り出した日南は、二度目の「来なさい」を発動させて俺の腕を引き、家の近くのパスタ屋へと俺を連行したのだ。
「隠すは隠すわ。でも、大事なのは隠した上でなにをするかよ」
隠した上でなにをするか? ......じゃなくて。
「待て待て、だからなんでいきなりパスタ屋に来てるんだよ?」
「ほら、来たわよ」
そして日南は困惑する俺の質問を無視し、店員が食事を運んできた。
「お待たせしました。きのこの和風パスタと、三種のチーズのカルボナーラです」
「どうも」
日南の前にカルボナーラ、俺の前にキノコのパスタが置かれる。
「いや、だから」
「ここ、美味しいのよ」
心から嬉しそうに笑いながらそう言う日南。なにその表情、驚くほど無駄にかわいい。
「......じゃなくて」
「はあ、まあ聞きなさい」
ため息混じりにそう言って自分の口元を指さす。かと思えば、さっきの美人になったり戻ったりする技を見せてきた。
「おお~」ぱちぱちぱち。「じゃなくて! なんなんだって!」
「しつこいわね、お腹が空いたから来ただけよ」
そう言ってカルボナーラを一口食べる日南。フォークで巻く仕草、それを口に持っていくまでの軌道、小さく口を開けてフォークに巻かれたパスタを口に含み、そしてフォークだけを唇 からゆっくりと引き抜く所作。そのすべてが上品で美しく、惹きつけられる色気があった。唇についたソースをペロリとなめとる舌を、つい目で追ってしまう。
「......うん、おいしい」
そして自然で無邪気な微笑みを浮かべながら小さくつぶやく日南。半端なく無駄にかわいい。
「つまりね......表情なのよ」
表情?
「いまの笑顔のこと?」
「は? いまの笑顔?」
「あ、いや、な、なんでもない」
無駄にあれすぎたので変なことを口走ってしまった。
ありがたいことに日南は、特に気にしていない様子で話を進めていく。
「いい? これが美人の状態の口元」
そう言われてよく見てみると、口角が軽く上がっていて、それに応じて頬 のあたりも引き締まった感じになっている。文句なく美人だ。愛想もある。しかしじーっと見ているとなんというか、あれだな、ホントに顔かわいいなこいつ。意識すると目を見れないんだけど。
「で、これがそうじゃない状態」
日南の顔全体に覇気 がなくなる。その状態もよく見てみると、口角は下がり、頬のあたりがたるんでいる。鼻の横辺りにシワができてすらいる。ブサイクってほどではないが美人と言えるか際どいラインだ。
「ほ~」ぱちぱちぱち。
「なにがほ~よ。アホ面ね。感心する場面じゃないんだけど?」
「......は、はい」
ちょっと気圧される。いややっぱりかわいくねーってこいつ。
「わかった? つまり」
口角を上げる日南。
「私は日常でも常にこの状態で」次に口角を下げる日南。「あなたは常にこの状態ってこと」
「そ、そこまで? 俺」
不覚にも少し驚いてしまう。まあさすがに口角が上がった状態だとは思っていないが、自分が悪い例のほうだと言われるとちょっと不服、とか調子に乗ったことを思ってしまう。
「はい」
そのリアクションを準備していたかのように、手鏡を突きつけられる。頬がたるんでいる俺の姿があった。
「......なるほど」
「わかった?」わかってしまった。「......わかったみたいね」
「いや、でもそれだけで顔が大きく変わるとは思えない。俺の顔は口角以前のブサイクだぞ」
「口答えが多いわね」
「しょうがねーだろ、十六年間抱えた思いだ」
「あなたがブサイクかどうかはこの際置いておいて」置いておいてくれた。意外と優しいところもある。「口元の重要性がわかってないみたいね」
「口元の重要性?」
「ええ」
日南は合間合間にパスタを食べながら話しはじめ、俺もそれに倣ってパスタを食べはじめる。すると。──うまい。めちゃくちゃうまい。なんだこれ。うまいぞ。なんだすごいぞこれ。
程よく焦がされたバターと醤油の芳 ばしい香りが鼻から脳へ直撃。ひとくち食べるとベーコンからにじみ出た脂にきのこの旨味 が混ざり合い、舌の上でとろりと溶け、濃厚な風味が細胞に染み込む。気づけば同時にモチモチの食感の麺が、顎 をも楽しませてくれている。
「......うま、すぎる......!」
こんなうまいパスタがこの世にあったのか......。日南、ありがとう......。
感動と感謝の意を込めて日南の方を見ると、瞳が潤み、めちゃくちゃ物欲しそうな表情をしている日南がそこにいた。
「そっちも......美味しそうね?」
淡々とした口調でそう言いながら、日南は俺の顔と俺のパスタに交互に視線を向けている。
ええっと、これは......さすがにコミュ障でもどうすべきかわかるレベル。
「......ひと口、食うか?」
すると日南は潤んだ瞳を大きく開き、ちょっと直視できないくらいにかわいい表情になる。
そして「ありがとう。いただくわ」と俺のパスタにフォークを差し込みクルクル。口まで運び、パクリと食べた。そして色気すら漂う恍惚 の表情。
その表情に見とれそうになっていたとき、一瞬遅れて気づいた。
「ああ!!」
「な、なによ?」
日南 はピンときていない様子で言う。いや待てよ、だってこれっていわゆるあの、口と口とのあれが間接的に行われているという、そういうことになってるじゃないですか......!
「いや、だってお前これ、かん、せつ......キス......」
俺が意を決して言い切ると、日南は眉を吊り上げてあきれた表情を作った。
「あのね。ペットボトルとかならまだしも、こんな些細なこと気にするって中学生までよ?」
「え? あ、えーと、普通はあんまり気にしないもの......なんですか?」
俺の動揺を無視し「はあ。そんなことより話を進めるわよ」と態度を引き締める日南。
「グラサンをかけている男二人が喋っていたとするわ。目も眉毛も隠れているの。内容は聞こえないけど姿は見える」
「な、なんですか急に」
間接的なアレの混乱がまだとけてないんだけど。ああ、でもパスタおいしい。
「片方がリア充、もう片方が非リア充だとする。そのどっちがリア充で、どっちが非リア充か、見た目で判断できると思う?」
さっきの口元の話? えーと、グラサンをかけた二人の、どっちがリア充か?
「いや...まあ、見ればなんとなくわかるんじゃないか? ......ああ、うまい......髪型とか、挙動とか服装でなんとなく」
おいしすぎるパスタを咀嚼しながら答える。
「じゃあ、もし、両方ともボウズで、スーツだった場合は?」
髪型がボウズで服装がスーツの場合か......。頭にその場面を想像してみる。
ボウズのグラサンが二人いて......スーツを着ていて......もぐもぐ......人と喋っている状態。
「いや、それでもなんとなくわかりそうだな」
頷く日南。
「そう。髪型も一緒、目も眉も隠れている。その状態でもなんとなく見分けることができる。それって不思議じゃない?」
「まあ、そうだな。おいしいなこれ。たしかに不思議は不思議だ」
「それをなんで見分けることができると思う? ......それがつまり、これよ」
頷いた日南はまた自分の口元を指さす。まさか。
「......パスタか?」
「バカじゃないの?」
ごめんなさいそうですよね。
「......表情、か」
「そのとおりよ」
「う~ん」
「さっき見せたとおり表情、特に口元だけでパッと見の印象には大きな差があるわ。人はそれを無意識に感じ取って、人の性格をなんとなく判断しているのよ」
うん、まあ。
「そりゃあそうだろ、って感じだな」そこでふと気づく。「え、でも待て。ってことはお前、それを考えて常に口角を上げてるのか?」
そして、パスタを食べ終えてしまった。
「そうね。半分正解で半分不正解」
「半分?」
「最初は意識して常に上げていたわ。でも、筋肉が鍛えられるにつれて、自然と上がるようになったの。うん、おいしい......。それまでに数か月はかかったけれど」
「数か月......」
あの愛想の裏にそんな努力があったなんて。
「まあ、とにかく表情筋とか口元は大事って話だな? ......でも、じゃあこのマスクはなんなんだ? やっぱりその口元を隠しちゃ元も子もないんじゃ?」
「筋トレよ」
「は?」
「だから、筋トレよ。筋肉なんだから鍛えようと思ったら筋トレしかないでしょ?」
「......どういうことだよ?」
そして日南は、戸惑 う俺の胸元に三十枚入りのマスクの袋を押しつけ、こう言い放った。
「これから一か月。食事と睡眠のとき以外は、移動中、授業中、人と話してるときも常に、マスクの下は満面の笑みで生活しなさい」
「......ええ!? まじで? 常に?」
俺は押しつけられたマスクを受け取りながら困惑の声を上げる。
「当たり前じゃない。時間は有限よ。一か月以内で仕上げてもらうわ」
そう言いながら日南はまた座り直した。いつの間にかこいつも完食している。
「いや、でもお前だって数か月かかったんだろ? ならそのくらいのペースでいいんじゃ?」
「なに言ってるのよ。それじゃあ目標に間に合わないわ」
「目標?」初耳だぞそれ。「最終的にリア充になるってやつじゃないのか?」
「わからない? 努力を始めるならね、たしかにそういう大きい、遠い未来の目標も大事だわ。でも、それと同時に、少し先の未来の目標と、ごく近くの未来の目標も必要なのよ」
「......ああ」
たしかに、俺がアタファミを練習していたとき、そういうふうに目標を設定してやっていた。
「あなたならわからない?」
「......そうだな、まあ、わかるけど」
「さすがね。話が早いわ」
大きな目標を達成するためには、それよりも小さい、いくつかの段階を踏んだ目標があると捗 る。というか、そうしないといま自分がなにをすればいいかわからなくなるし、なによりモチベーションが続かない。少なくとも俺がゲームを極めるときはそうやっていた。
つまり......『人生』もゲームだから同じ、ってことか。
「大きい目標、中くらいの目標、小さい目標、これを順次クリアする形で進めていくわ」
「ってことは大きい目標が......『リア充になる』ってことでいいのか?」
「そうね。まあ、リア充って言っても程度があるから、最終目標にするくらいなら、『私と同じくらいの』リア充になる、ってところかしら」
「それは......ちょっと厳しすぎるのでは......」
「たしかに校内随一のぼっちのあなたと、校内随一のリア充の私じゃあ差が開きすぎてはいるわ。でも、私の言うことをしっかりこなしていけば、なんとか達成できないこともないわね」
......まじかよ。
「まあ、わかった。......で、じゃあ中くらいの目標と、小さい目標はなんなんだ?」
「そうね、じゃあまず、小さい目標から発表するわ」
ごくり。
「家族、または身近な友達に『彼女でもできた?』と言われること、よ」
......はい?
「どういうことだよ?」
「言ったままだけど?」
「えーと?」と腑に落ちない俺を日南のあからさまに呆れた表情が襲 う。
「はあ......アタファミに関してはすごくても、人生に関してはまるで飲み込みが悪いのね」
手のひらを上に向けてわざとらしくやれやれ、をされる。
「余計なお世話だ」
「いい? 要は『直接質問されるほどの表面上の変化が起きたと周囲に認識される』ってことよ」
えーと。『直接質問されるほどの表面上の変化が起きたと周囲に認識される』?
「......それが、彼女でもできた? ってセリフなのか?」
「あーもう。それはなんだっていいわよ。『最近やたら垢抜けてない?』でも『一瞬誰 かわからなかった』とかでも。とにかく、そういう『大きな変化』を指摘される言葉をかけられたらそれでクリア」
「な、なるほど」
「周囲からかけられるってところが重要よ。自分で大きな変化だと思うだけじゃダメ」
「ほ、ほう」
「つまり、客観的に見てあからさまに、容姿や醸し出すオーラが改善された、と思うような状態になることが大事ってことよ」
「わ、わかった」
日南がイライラしている。眉間のシワでわかる。
「どれだけ説明させるのよ」
「は、はい。......でも、どうやって判定したら......」
「なにがよ」
「ほら、周囲からなんか言われたとして、その言葉で本当にクリアなのかどうかを」
「......そのくらいも自分で判断できないの?」
「す、すいません」
「......わかったわ。なにか言われたら私にその言葉をそのまま教えて。クリアか判定するから」
「りょ、了解......」
不本意な面目なさが俺を包む。
「で、クリアできたらまた順次小さい目標を与えるわ。その時の状況に応じてね。で、中くらいの目標だけど......これはすごくシンプルよ」
そう言ってニヤリと笑った。
「三年に進級するまでに、彼女を作ること、よ」
ポカーン。とはこのこと。彼女? 俺が? 生涯イッピキウルフとして過ごしてきた俺に? 当然のように彼女いない前提なのは俺だからかな。日南さん正解です。
「いやいやいやいやいやいや」
「なに?」
「ハードル高すぎるだろ!」
「どこがよ?」
本気でピンときてないような表情。これがモテてきた人間との意識のギャップってやつか。
「あのな、お前は簡単に彼氏ができるからわからないだろうけどな、モテない人間からしたら恋人ができるってのはとんでもない非日常なんだぞ!? しかもいま六月だろ、てことは一年もないってことだよな!? 俺にそんなもん無理に決まってんだろ!」
つい立ち上がって自分のモテなさを熱弁してしまう。食後の紅茶を持ってきた店員さんが苦笑いしながらソーサーをテーブルに置く。日南は座ったままため息をついた。恥ずかしい。
「はあ。......あのね、じゃあ逆に聞くわ」
すご~く冷めた目だ。
「は、はい」
「高校二年生で、彼女がいる男子って、どのくらいの割合だと思う?」
「え......まあ、なんだ? 二割か三割くらい、か?」
「......それじゃあまあ、仮に少なく見積もって一割とするわね」
「あ、ああ」なにを言う気だろうか。
「話をわかりやすくゲームにするわ。そうね、じゃあアタファミ。あなた日本一よね?」
「まあ、そうだな」
「はい、じゃあ、ここにアタファミのズブの素人がいるとするわ。で、その人はアタファミを上手 くなりたいって言ってるの。そこであなたの登場よ」
ビシッと指さされる。
「俺の?」
「そう。その人に、一年間みっちり、こう操作しろ、とか、こういう練習しろ、とか、アドバイスができるの。それで、その人もあなたの言うことをしっかり守って、実践するの」
「......なるほど」
「そうなったとき、その人を一年間で、日本の全人口の上位一割のプレイヤーに育てることって、どれくらい難しいと思う?」
一割か。一割って言ったら十人に一人のレベル、クラスで一番に強いくらいのレベルか......。
つーことはまあ。
「......めちゃくちゃ......簡単だな」
「おにただ」
「え?」
「一割っていう、かなり少なく見積もった数字ですらそうなのよ。つまり、あなたが進級までに彼女を作るのは、私の言うことを守ってくれれば簡単ってことよ」
ちょっと早口でまくしたてられる。
「じゃなくて、なに? いまの?」
「......気のせいよ」
なんだ? ふざけてるのか? 顔が赤いし、俺を馬鹿 にして、笑うのをこらえてるのか? しかもなんか聞き覚えがあるような響き......。
「そんなことより、わかったわよね? 大して高いハードルじゃないってこと」
まあ、たしかに理屈の上ではそうだけど......。
「でも、アタファミと人生は違うだろ」
またため息をつかれる。
「勝手に決めつけないでもらえる? あなたはアタファミについてはプロだけどね、人生についてはズブの素人なのよ? とりあえずやってみるって決めたんなら従っときなさい」
「......すまん、まあ、そうだな」
素直に謝る。自分で決めたことだ。たしかに俺は人生のルールと、人生におけるキャラの上手な操作方法を知らない。その超上級者が言っているのだからとりあえずは犬のように従うべきだ。それが正しいゲーマーのあり方。そうして神ゲーかどうか、判断していけばいい。
「第二被服室、場所わかる?」
「え?」
「だから、旧校舎の第二被服室。わかる?」
ああ、うちの学校の......なんかあったなそんなとこ。
たぶんあそこだ。旧校舎まで行けばわかるだろう。
「ああ、なんとなくわかる」
「そう。じゃあこれから毎日、始業三十分前と放課後、そこに来て」
「な、なんで」
「その日やるべきことの指示と、その日の報告と反省をするために決まってるじゃない。トライアンドエラーなくしてなにが努力よ。やるなら徹底的にやるわよ」
やるなら徹底的ね。まあ......そこは同意だ。
「......おっけー」
「とはいえ、お互い予定が入る日も出てくるでしょうから、そのあたりは臨機応変に対応していきましょう。アドレスはもう知ってたわよね」
「そうだな。まあ、俺に予定が入ることなんてめったにないけどな。ははは」
「......あなたね、ホントにやる気あるの? 数か月以内には放課後予定が入る人間になっている算段よ?」
睨まれる。てか、え。
「まじか」
「当然でしょ」
すごい頼りがいがある。もしそうなったらかなりおもしろいことだ。
「わかった。よろしくお願いします」と軽く頭を下げる。
「あ、あと......」
そして突然、最低限のクールさだけ残して、まごまごした感じで喋りだす日南 。紅茶をちびちび飲みながら目を横にそむけている。
「ん? なんだ」と問い返すとちょっとビクッとされる。なんだこれ?
「あの、まあほら、一応これってNO NAMEとnanashiのオフだったわけでしょ?」
なんだこの急なしおらしい態度は?
「そ、そうだけど。どうした?」
「ど、どうしたってなにがよ。......ほら、オフだったわけだから......」
「ん?」
「ああもう!」
日南はらしくないくらいに感情的な声を漏らしたあと、一瞬目を伏せて息を吸い、不自然なくらい俺に目を合わせて、
「だから、アタファミのフレンドコードを教えあうのが普通じゃないの? ってことよ」
今までもずっと俺の目を見て喋っていた日南だったが、なんというか今は、そらしたら負けだから無理やり合わせ続けている、みたいな力みを感じる。
そのキッと睨むような視線や引き結ばれた唇とは対照的に、なんというか、少しずつ頬 が赤く染まっていっている。これが暑さとか怒りによるものではないことはコミュ障の俺でも十分にわかった。わかったがゆえにどの言葉を選ぶべきかわからなかった。アタファミのことになると感情が、とは聞いていたがここまでか。
「それだけだけど? ......なにか言いたそうね?」
変に刺激して怒らせるのも本意ではないので、いやべつに、とだけ言ってフレンドコードを交換した。これでいつでもフレンド対戦ができる。
さっきの赤ら顔は頭に焼き付けるに留めることとしよう。ちなみに紅茶も激ウマだった。
始業四十分前。場所がわからなかったときのために早めに来たが、存外あっさりと見つかり、予定より十分も早く第二被服室に到着した。
第二被服室は古びた味のある雰囲気 で、いまは初夏であるはずなのに、黒板には『十月二十六日』と書いてあるのが廃墟じみていて心 地 いい。忙しく舞うホコリも、朝日に照らされると神秘的に見える。窓際に等間隔で並んでいる大きなミシンはデザインが前時代的で、それが逆にモダンな印象を与えている。本来白かったであろう陶器製の面が、陽 の光で焼けたのかほんの少し黄色くくすんでいて、その絶妙な色合いがどこかノスタルジーを誘う。
そんな静かな空気に浸っていると、日南がやってきた。
「おはよう友崎くん。さて、記念すべき一日目ね」
「あ、ああ」
「悪くない雰囲気でしょう?」
教室を見回しながら日南が言う。
「え、ああ、そうだな。嫌いじゃないな、廃墟みたいで」
「あら、わかるのね、いいセンスじゃない。何度も来る場所だから、いい場所を選んだのよ」日南は言いながら手近な椅子 に座る。「座り心地は悪いけどね」
そして苦笑する。その正面に俺も座ると、少しガタつき、背もたれもないため、たしかに座り心地はよくない。
「まあ、こういうのも悪くないな。俺、レトロゲーとかボードゲームも好きだし」
「あらそうなの。いつかお手合わせ願いたいものね」
「望むところだ。俺がアタファミだけだと思ってると、痛い目を見るぞ?」
「ふふ、そうは思ってないわよ? ......けど、それはこっちのセリフね」
nanashiとNO NAMEのプライドが一瞬、バチッと交錯する。
「まあ......で、今日は?」
「......そうね。早速課題を出しましょうか。とりあえず、小さい目標に向けてのそのマスク筋トレは継続してもらうとして......。中くらいの目標に向けての根回しを進めておきたいわね」
「中くらい......彼女を作るってやつね......」
正直、いまだにリアリティがない。
「どうしてマスクをした状態でそんなに辛気くさいオーラが出せるのよ。それも一種の才能ね」
「余計なお世話だ」
「それで、その課題なんだけど、もう決まってるわ」
「おお......」
ごくり。
「......今日の課題は『学校の女子三人以上に話しかける』ことよ」
えーと......。
「えらく単純だな? ......ていうか、いきなり実践編?」
まだ表情筋の訓練しかしていないし、それだってやり始めたばかりだ。
「なにか疑問?」
「いや、なんというか、早くないか? まだなにも変化してない今の状態で?」
もう少しこう、例えばしゃべりの練習とか、この表情筋のトレーニングとか、そういうのが終わったあとにそれをするならわかるけど、今やってもキモがられるだけなんじゃないのか?
「まあ、あなたの想像してることはわかるわ。でも今はこれが必要なのよ。いいから従って」
「まあ、そうだな......わかった」
やるならとことん従うと決めたわけだし。
「ただし、いくつか注意事項があるから、それだけ気をつけること」
「注意事項?」
「ええ。まず一つは、喋りかける内容。これはある程度指定するわ」
「指定」
「風邪 をひいてしまったけど、ティッシュが切れたから、持ってたら一枚欲しい、って感じね。まあティッシュでもなんでもいいけど、風邪 をひいたってところをキッカケにすること」
「風邪がキッカケならなんでもいいのか?」
「そうね。今まで話したことのない人に話しかけるにはなにか、表面的にわかるキッカケがないと警戒されるのよ。クラスのヒエラルキーの下位 の人からなら特に、どうした急に? ってね。そこを自然にできるならいいけれど、あなたなんてどうせ気持ち悪い感じで話しかけるでしょうし。その点、風邪 ならちょうどマスクをしていて見た目でわかりやすいし、最適なのよ」
「な、なるほど」
途中で悪口を言われたが納得してしまった。
「それに最悪、あなたがもしめちゃくちゃ気持ち悪い対応をしてドン引きされたとしても、あとで挽回 すれば『あの日は風邪をひいてたから』って脳内補正してもらえるじゃない?」
「な、なるほど......」
そんな悲しい想定もしてるんですね。ありがとうございます。必要だと思います。
「で、注意事項もう一つ。話しかけるのは、必ず私が近くにいるときにすること」
「日南が近くに? ちゃんと三人に話しかけたか監視するってことか?」
「うーん......まあ、そんなところね」
意外と厳しい。
「わかった」
「いい返事ね」
「あー、でもさ、日南が近くにいて、俺が自然に女子に話しかけられるチャンスって、三回もあるか?」
「あるわよ。ホームルーム前に隣の席の優鈴でしょ。泉 優鈴。それから、移動教室の家庭科で隣になる、みみみちゃん。七海みなみ、ね。自然に話しかけられるわよ」
「......よく俺の隣が誰か覚えてるな」
「あら、クラスの席順は席替えする度に暗記してるわよ?」
なんじゃそりゃ。すごいな。たしかにその二人ならタイミング的にまあがんばれば......けど。
「......あと一回は」
「あなたね、一回くらい休み時間でもなんでも自分でがんばりなさいよ」
「......ですよね」
俺には高いハードルだなあ。
というような感じで作戦会議は終わり、日南と時間差で教室に戻った俺は、そういえばもう今まさにこの時間、泉優鈴に話しかけるという課題を早速実行しなければならないことに気がついた。心の準備が。焦る焦る。
ていうか。よく考えりゃ泉優鈴かよ、よりによって。いわゆるイケてるグループの構成員。グループの中ではボス格とかではないが、まあ明るく、声も大きく、よく笑う明朗快活女子。更に言うと、日によってネクタイを付けているというのもイケてる証拠だ。
我らが関友 高校は、女子はリボンとネクタイから好きなほうを選ぶことができる制度になっているが、先輩やらから受け継がれた空気としてなんとなく『カーストが低い女子はネクタイを付けてはならない』という暗黙の了解のようなものがある。泉 優鈴 は気分で付け替えているようで、別にどっちか気にしていない、というところから余裕すら感じる。ちなみにこのやたら現代的な校風や制服は生徒から好評を受けるとともに、田んぼだらけの立地なのに背伸びしていてダサいとの評判もある。これが埼玉の運命。
まあなんにせよ。スカートが短く、リボンだけでなくたまにネクタイを着用、しかもそのリボンやネクタイも首元が緩く、カーディガンが明る めの色の泉優鈴。こんなのイケイケ女子のお手本のようなものなのだ。いわゆるビッチとか言われるような女子。胸もでかいし。清潔感はかなりあり、かわいい 系であることから威圧感はあまりないとはいえ、そんな泉優鈴に俺が突然話しかけるのだ。たしかに風邪でも言い訳にしないと無理だ。
俺が席につくと、泉優鈴はなにかを探すように自分の席でカバンを探っている。そのなにかが見つかったら多分、席を離れて窓際でたむろしてるイケてるグループのところに合流するのだろう。じゃあ、今しかないよなあ。日南 も目の届く範囲にいるし。......よし。
どうにでもなれ!
「あ、ご、ごめん、泉さん、ちょっと」
「ん? えなに友崎くん? どーしたの?」
やはり急に話しかけられたことに軽く困惑している様子だ。しかしこちらに振り向いただけで明朗快活さが見て取れるようなポップな動作。ボタンの間の小さな隙間から大きい胸がチラリと見える。その留められたボタンは大きい胸に引っ張られていて、胸と脇の あいだのあたりにピンと張った横ジワができている。つまり、反射的に形を想像してしまうほどに胸と布が密着している。でかい。しかしなんでこういうリア充 の女って、シャツのサイズがパツンパツンなんだ。わざと小さめのサイズを選んでいるのだろうか。見ちゃうからやめて欲しい。
「え、えーと、ティッシュ持ってたりする? 風邪ひいたんだけど忘れちゃって......」
具合悪そうな感じを出しつつ、胸に目線がいかないよう最大限我慢し、さらにマスクの下は筋トレで満面の笑みなのでどんな声色になってるかよくわからない。
「え、ああ、うん待って。......あーごめん! 持ってなかった!」
手を合わせてごめん! のポーズ。腕で寄せられて大きい胸がさらに強調される。見ないぞ見ないぞ。しかし、あっちゃーみたいなリア充グループらしい軽いノリだ。思ったよりも普通の人間に対するものと同じような対応をもらえて安心する。
「あ、だよね、ごめん、大丈夫大丈夫」
ごめんとか大丈夫ってなんだろうと自分で思いつつそう言った、その直後。泉優鈴が後ろの席にバッと振り返り「ねえねえ、ティッシュ持って る?」と尋ねるという驚きの事態となった。わーお予想外予想外。反射的に他の人に尋ねられるというこの人間関係の運動神経みたいなものがすごい。俺に御し きれるだろうか。
「持ってますよ......。どうぞ......」
おっとりした口調ではあるが、聞かれた直後にもうブツを差し出している、くらいのレスポンス。展開早いよ。ポケットティッシュを机に常備とかしてんのかこの子。
えーと、菊池風香さん。
色白の黒髪ショートカット文化系女子、というありがちなカテゴリにまとめるにはもったいないほどの独特で繊細な雰 囲気を持った妖精のような存在。よく見なくても美人だ。うつむきがちで、長いまつげが目立っている。なぜか同級生にも敬語。
「ありがと! はい、ティッシュ」
菊池さんから元気よく受け取ったティッシュをそのままの元気で俺に差し出してくれる。
「あ、ありがとう」
泉優鈴と 菊池さんを交互に一瞬ずつチラッとだけ見て両方に感謝しましたという意思を表明しながらそう言う。俺にできる精一杯の誠意だ。泉優鈴はティッシュを探した ときに見つけたのか、話しかける前に探していたものと思われる小さい手鏡を持って席を立ち、じゃ、と友達のところへ向かった。
となると急に一対一。俺はまだ洟をかんでいない。袋ごと受け取ったので、洟をかんで、返すまでこの場は閉じない。菊 池 さんは他に見るものがないのでという具合で俺のほうをぼんやりと見ていて変に気まずい。洟をかむ演技だけしてさっさと返そう。しかし、ぼんやりしているようで力も感じる、不思議な視線だ。黒目が密林の秘宝みたいに妖 しく輝いている。
俺はどこかのタイミングでいつの間にか椅子に横座りになっていたため、このままだと菊池さんの輝いた瞳で、 洟をかむ瞬間をバッチリ見られる。しかし、前向きに座り直すのも意識してるみたいでなんとなく気まずいのでこのままの状態でマスクを外し、洟をかむ。菊池 さんも多分、わざわざ視線外すのもなんか意味ありげだから、ぐらいの感覚でだと思うけど、洟をかむシーンをその魔法の瞳でぼんやりと見つめている。なんだ この空間。消極性が生むドラマ。
洟をかみ終え、菊池さんのほうへ視線を向けると、菊池さんは視線を少し下にずらす。
「......えーと、ありがと」
「......はい」
ここだけ見れば初々しくて微笑 ましい二人みたいな感じなのだが、洟をかんだあとなのでそうはならない。粛々 とポケットティッシュを返却する。使い終えたティッシュをゴミ箱に捨てに行き、また席に帰ってきた。ミッション完了。これは、二人に話しかけたとカウントしていいのだろうか? とか考えていると。
「友崎くん」
「ひゃ!?」
菊池さんの澄み切った、耳から脳に直接息を吹き込むような声に不意打ちされる。
「な、なに?」
「あの......」
あれ、俺なにか不備あったか? 菊池さんはかなり怪訝な眼差 しだ。
「あの......聞きたいんですけど......」
「え......?」
「あの......なんで......」
なんで......?
「なんで......笑ってたんですか?」
はっはっは、やっちまったぜ。
結局、歯が痛くてーとか、それでイーってなったのがそう見えたんだと思うー、みたいなことをすごいしどろもどろに言ってなんとか形式上は乗り切ったけど、そう、なん...ですか...? と口にした菊池さんの眉 は完全にひそめられていたし、目にもハッキリとクエスチョンマークが浮かんでいたので実際には乗り切れていなかったんだと思う。
どうだろうか? と思い日南のほうをチラッと見たら、見せつけるようにオーバーなた め息をついていたのでやっぱりダメだったんだろう。絶対に気持ち悪がられている。とはいえまあ、細かいところはどうあれ、最低条件は満たした。失敗した点 は反省しつつ、これは大きな一歩のはずだと思い込んで進むしかない。
さて、次は四時間目、家庭科の授業だ。俺はまた焦る。ここで『みみみ』あるいは『ななな』こと七海 みなみに話しかけないといけない。二種類の音のみで名前が構成されているからそう呼ばれていて、最近はみみみがメインのようだ。白い肌に黒い長い髪、整った目鼻立ちにきりっとした輪郭、日本人形のようなルックスなのにぱあっと明るいのが特徴だ。日南と同じ陸上部に所属しているとのこと。
移動教室のときにあまり早く行きすぎると、俺とは別のぼっちの人がポツンポツンと、それぞれ『お気になさらず』みたいな雰囲 気を醸 し出すためなのかノートやら教科書やらを見ながら漠然と座っている。俺はその空気に飲まれるのが苦手なため、いつも一人で図書室に行って時間を潰 してから移動している。
十分休みに図書室に行くやつなんてのは稀 で、いつも俺ともう一人いるかいないかだ。ちなみに俺は本を読むフリをしてアタファミの戦法の検討をしている。だが今日は図書室に行っている暇 はない。できるだけ早く行き、七海みなみ、またはチャンスがあれば別の女子に話しかけなければ。
三時間目が終わるやいなや、家庭科の教科書と問題集、筆記用具とルーズリーフを持って教室を出る。
家庭科室についてみると、想像通りのお気になさらず空間──プラスアルファが広がっていた。ぼっちの人が二人、別々に座っている中、俺の 班、ていうか俺の隣の席、いやもう言ってしまえば俺の今回のターゲットである七海みなみがすでに着席していた。なんでよ。問題集を開いてシャーペンでなん かやっている。とにかくこれはチャンス、なのだが、ここで話しかけると、それ以外のすべてが無音のため、この教室内の音の割合のすべてを俺と七海みなみの 会話で占めることになる。別に他の二人に聞かれること自体はどうってことないのだが、自分の発する音が部屋を満たすというのは理屈じゃなくなんとなくキツ イ。
厳しいなーどうしよう。あとにしたいんだけど......。ん? ていうか、待て、そうだ。日南がいない。そうか、あいつが見てるところ でやらなくてはいけないから、ここでやっちゃダメなんだ。そっかそっか、もう少しあとにしなきゃだめだ。人が集まってきてからにしよう。
そんなふうにして俺は百点の言い訳を捻出し、安全な精神体制で七海みなみの隣の席についた。
「ん、どーした友崎くん。早いね!」
なんでだよ!
さっきまで黙々と問題集に向き合っていたはずの七海みなみが、俺が隣の席に座るやいなや即、一 縷 の迷いもなく、なにか元々そういう所作があるみたいな感じで話しかけてきた。あまりにも流れるような自然さで話しかけてきたため一瞬『俺が話しかけられたわけではない』という錯覚をしかけたが完全に友崎くんと言っていた。
シカトする訳にはいかないが彼女が聞いている『早く来た理由』に正直に答えるなら「七海さんに話しかけるためだよ」となり、そんなことを言ったらキモすぎて殺されてしまう。とはいえ俺はコミュニケーションに関する機転なんて一切利かせられない。だから、
「......いや......」
「へ?」
「......いや、えーと、あの、なんとなく」
「あー、そう? まあ、だよね。そんなもんだよね!」
こうなる。
しかし「なんとなく」というまったく実りのない回答に対しても「だよね」と返せるだなんて、最近の若い女の子の共感能力はすごい。俺もいずれこうなれるのだろうか。
ていうかどうしようこの状況。一度会話を始めてしまった以上、ここから沈黙が続けばそれは『別々で作業をしている状態』ではなく『会話を しているが続いていない状態』であると空気の神に判断されてしまう。しかしもちろん、最近のテレビがーとか、クラスのアイツってーみたいな無難な話題は持 ち合わせていない。このタイミングで思い出したようにティッシュ貸してっていうのも、まあもう最悪それでいこうと思っているが、なかなか不自然だ。
だからもう、苦し紛れにあがくしかない。
「い、いやーでもすごいよねー」
恐る恐る、できるだけ自然になるように声を出す。
「ん? なにが?」
キョトンとした丸い目でこちらを見る七海さん。透き通っているが声量がやたらあるので、教室中に響き渡る。
「いやほらいまさ『なんとなく』とかさ、まったく実りのない答えしたのにさ」
「うん?」
ピンときていない様子。そりゃそうだ。
「なのにさ、『だよね!』って返せるなんてさ......最近の若い子の共感能力ってすごいなーと思って......」
──。七海さんは、なにを言っているのか脳の処理が追いついていない、みたいに沈黙。そりゃそうだ。さっき思ったことをそのまま口に出しただけなんだから。会話もクソもない。
「............」
「............」
気まずい。あーダメだ。変な空気。完全に俺のせい。ダメだ。会話ってどうすればいいんだ? とりあえず話しかけろって言われたからやったけど、こんな目にあうなんてさ。
「あーいやごめ」
「あはははははははは!」
「へ?」
めちゃくちゃ笑っている。教室にいた他の二人がこっちをチラチラ見てくる。
「え、な、な」
「なに言ってんの友崎くんおじさんかよ! あはははは!」
こ、これは一体。
「え、いや俺はただ最近の若い女の子の......」
「いや友崎も若いから! あははは!」
「い、いや、おれはただ......」
「......え、なになに? ただ?」
ぷくく、わくわく、みたいな感じで聞いてくる。いや、マジメに思ったこと言うだけだから。
「ほら、最近の女子高生って『ヤバイ』って言葉をいろんな意味で会話に使うでしょ......? それみたいに、やっぱり共感っていうのが若い子のテーマに......」
「あはははは! やめて! ワイドショーの人みたいなこと言うのやめて! あはははは!」
マジメに言ったらさらに笑われた。なにが起きているんだこれは。笑われているあいだにちょくちょくと教室に別の生徒が入ってきては「友崎とみみみ!?」みたいな目でこちらを見る。
「いや、俺はただ、話には聞いてたけど実感が伴わなかったから、やっぱり生で見ると迫力あるなあというか......」
「あははは! 迫力ってなに!」
「貴重なサンプルと思っただけで......」
「だからおじさんかよって! 周りにいくらでもサンプルいるだろ! あはははは!」
「みんみ~。どーしたの?」
同じ班の、七海さんと仲良しの夏林 花火が、七海さんの正面に座って尋ねた。華奢 で小柄、ボブヘアに童顔、ちまちました動き、とまさに小動物と呼ぶに相応しい。
「あっ、たま! 今日もちっちゃいね~!」と言いながら七海さんは夏林さんの頭をワシャワシャ。由来はわからないが、小動物らしく『たま』と呼ばれている。ちなみにその『たま』は七海さんのことを『みんみ』と呼んでおり、その由来もよくわからない。
「そういうのいらない! 質問に答える!」
夏林さんは片手で七海さんの腕を払いながら、一五〇アンダーと見られる低角度からの鋭い叱咤 を飛ばす。言い方はきついがまったく迫力がない。
「たまは怖いな~」
「話そらさない! 説明!」
「ごめんごめーん。あのね、友崎が、おじさんみたいで、えーと、なんていうの? んーと、わからん! パス!」
「は!?」
「へっへっへ~。早く教室に来た人しか楽しめませんでしたってことで!」
「それはない! そこの、えっと、友崎、だよね? はい説明!」
怖くない叱咤の矛先が俺に向く。むしろ名前が曖昧だったことのほうが鋭く突き刺さる。
「え、俺?」
「ほかに友崎っている?」
「いや......」
「じゃあはい、ぐずぐずしない!」
「がんばれ友崎!」
両手をグーにして顔の横に置き、おどけて笑っている。
「いやがんばれって......あーと、あのね......」
って感じでがんばって説明をした。その間に日南が友達数人と一緒ににこやかに家庭科室にやってきて、こちらの状況を見ると数秒フリーズし、その後またにこやかな日南 へと戻っていた。
「......という感じなんだけど」
「あはははは!」
「全然おもしろくない!」と夏林さん。
「えー。おもしろいって~」
「ない! みんみの頭がおかしいだけ!」
「え~。ひっどーい! あはは!」
「あははじゃない!」
気持ちいいくらいに全部を一刀両断していく夏林 さん。この子は共感のきょの字もないな。若い子にも色々いるんだな。まあ俺もマジメに言ったら笑われただけだし、夏林さんに同意だ。
「えと、俺もおもしろくないと思うけど......」
「えー!」
「でしょ! やっぱりみんみがおかしい!」
「そんなことないと思うけどな~。たまが子供だからわかんないんじゃなーいー?」
「うるさい! めんどくさい!」
「なにそれあはは! でもねえ友崎? たまは子供だよね?」
えっ! ここで俺!? 子供なのか? とか考えてなかったしなに言えばいいんだ。どうしよう。機転なんて利かせられない。また適当に、思ってたことを喋 るしかない。
「えー...っと......子供かどうかはわかんないけど」
「わからなくない!」
「あ、うん......けど、感じたのは、さっき、七海 さんは共感能力すごかったけど、いま見てると、夏林さんは全部一刀両断するでしょ。だから、若い女の子とは言っても、人それぞれ、一概には言えないなーって......」
「あはははははははは! でた!」
「......」
七海さんは爆笑、夏林さんは不満げにこちらを見上げている。
「だから、一つのサンプルだけを見て、全体を決めつけるのは危険なんだなーって思った......くらいかな......」
「もうやめて! あははは!」
相変わらず爆笑する七海さん。笑い声が響く中、それを無視しながら夏林さんはこちらにこう言い放った。
「......それは」
「え?」
「......それはちょっとおもしろい!」
なにが!?
「みみみに花火に......友崎 ? なに盛り上がってんだ?」
しどろもどろになって喋 っていると、突然聞き覚えのある声。焦っていて時間の経過を忘れていた。影が近づいてくるのに気がつかなかった。いや、そうなんだよな。うっすら、これを恐れてたよ俺は。こうなる前に切り上げないといけなかった。
友崎、夏林、七海 。家庭科室の席は出席番号順だ。そしてその、友崎と夏林のあいだ。
──中村。
「なんだお前ら? 友崎と盛り上がってんの?」
顔をしかめて不機嫌そうにしながら近づいてくる。一緒に、中村と同じグループの水沢と......竹井だっけか、その二人もやってくる。この二人はいわゆる中村派閥の固定メンバーで、中村を中心にして脇 を固めるように行動している。なかでも水沢は、ただの取り巻きというよりも参謀といったふうで、狡猾 に立ちまわっているのが俺から見てもわかる。
「おっ、なかむー聞いてよ! 友崎がおもしろくてさ~」
「へぇ......友崎が」
こちらをチラリと一瞥。ニコニコしている。目は笑ってない。
「どゆこと?」
蛇のような眼光。心臓を掴 まれる感覚。これから中村は俺をどうするつもりだろうか。アタファミ対決からもう一週間が経 つ。結果をみんながなんとなく察してピリピリしていた空気はすっかり薄れていて、しかも、今は取り巻きもいる。中村は相当強く出られるだろう。
「いやぁ~、友崎がワイドショーおじさんでさ~」
「なにそれ、ワイドショーおじさん?」
中村が不機嫌そうに言う。
「そうそう」
「意味わかんねーんだけど」
中村がそう言うと、横にいた水沢が目だけで周囲を見渡したあと、口を開く。
「説明してよ、友崎!」
中村の意思を汲んでか、わざわざ俺に対して質問をぶつけてきた。ここで個人を指名するあたりがいやらしい。俺に長いこと喋らせれば噛 んだりするとでも思っているのだろうか。そんでいじろうってか。しかしナメるなよ。俺はコミュニケーションの機転が利かないだけで、別に説明はできるんだ。あとお前らより圧倒的にアタファミが強い。
説明をした。
「......という感じで」
「あっはっは。そうそう!」
七海さんはさすがに二回目の説明だからか、さっきよりもリアクションが薄い。夏 林さんに関しては中村 たちが来てからずっと口をつぐんでいる。リア充グループの男が三人も来て萎縮しているのだろうか?
「......えーと、で?」
話を終えた俺に中村がそう言った。
「え?」
「いや、あ、終わり?」
「そうだけど......」
「全然おもしろくねーじゃん」
そう言いながら中村は取り巻き二人に、なあ? と投げかける。
「うん、これはないわ......」
「あっはっはっは!」
竹井が演技掛かった神妙な顔で中村に乗っかり、それを見た水沢 がよく通る声で笑った。
「えー! 三人ともツボおかしいねえ」
「いや、いっつもだけど、おかしいのはみみみだからな?」
「えーっ! なかむーひどい!」
そうして俺と夏林さん以外が大きく笑う。居心地 の悪い空気だ。七海さんのコミカルな表情や口調のおかげでギリギリ平衡が保たれている、というような印象。
「じゃあ......多数決とる?」
水沢がそう提案する。
「ああ、いいなそれ」
軍師を従える将軍といった感じだ。
「......出来レースの臭いがプンプンするなぁ?」
七海さんが笑いながらそう言う。
「はーい! じゃあみみみがおかしかったと思う人!」
ここぞとばかりに調子よく竹井が採決を取る。中村、竹井、水沢が手を挙げる。
「あははは! おい!」
勢いよくツッコミを入れる七海さん。空回っているような印象もあるが、このコミカルさがなければ窒息してしまいそうだ。
「あー過半数ならねーか!」
水沢がそうおどける。
「まあ、投票権放棄もあっから、まだわかんねーよ」
......妙なゲームが始まった。俺はどうするべきだろうか? まずこの多数決みたいな変なゲームに乗っかること自体がなんか嫌 だ。いじめじゃなくていじりですよ、とかいうくらいなんだろうけど、こういうのは苦手だ。
そして夏林さんはなんかさっきから不機嫌そうな顔すらしている。萎 縮しているとかで片付けられる態度ではない。これはどういう人間関係なんだ?
「あーもう! なかむー絶対わかってるって顔じゃんそれ!」
「はいじゃあ、修二がおかしいと思う人!」
ビシッ! と勢いよくコミカルに、七海 さんが手を挙げる。夏林さんはやはりうつむいたまま完全に無視している。やはりただごとではなさそうだ。俺はみんなの表情を見て、一体なにが起きているのかを考えている。なんだこれは? どうするべきだ?
俺は人間関係の経験が浅すぎるなりに、考える。
......まずここで挙げなかったら、なんでどっちにも票を入れないのか、という話になるのは確実だ。そして、いままでの素振りを見る 限り、夏林さんはそれを言われてもなお、無視する可能性が高そうだ。てことは、ここで俺が挙げようが挙げまいが「なんで手挙げなかったの~?」と、夏林さ んがいじりの標的になることは間違いない。
つまり、ここで俺が手を挙げたら夏林さんがひとりぼっちになる。俺も挙げなければ、標的になるのは二人だ。で、たぶん俺メインで攻撃される。なら、俺も挙げないのが得策だろうか? うんそうしよう。挙げない。
ていうかそもそもなんだこれは? 夏林さんはなんでこんなことになっている? 七海さんはなんでこの状況でこんなに笑えている? この状 況に気がついていないのか? それともホントはこんなのたいしたことじゃなくて俺が過剰に反応しすぎているだけなのか? あーもうなんなんだ! 集団での 会話って難しすぎるだろ!!
「はーい! 私もこっちに一票~」
──そこで不意に背後から聞こえた、快活で愛嬌のある声。
いや、無駄に快活で、無駄に愛嬌のある、作られた声。
「いま葵には聞いてねーんだけど?」
中村が、明るいが威圧的なトーンで言う。
「えー。私うしろでずっと聞いてたんだからいーじゃん」
「ないない。これはこの四班だけの問題だから。部外者はばいばい」
中村は手でしっし、と日南を払う。日南は自然すぎる作り笑顔を崩さない。
「なにそれー。友崎くんにアタファミで負けたくせに~」
──空気が凍りつく。
日南は今の言葉を、まあまあ通る声で言い放った。クラスで誰も触れないちょっとしたタブー。中村 がここに合流したあたりから、クラスのみんなはなんとなくこの班の様子を見守っていたため、その全員に今の言葉が届いたことになる。え? それ言っていいの? そんな空気になる。あははーとずっと笑っていた七 海さんの笑顔も一瞬引きつったように見えた。
「な。葵」
「それで悔しいからって多数決で攻撃とかちっちゃいぞ~! そんなんだから島野 先輩にフラれんの! 年下はやっぱり頼りがいがないわねぇ......って!」
身振り手振りで演技しながら、先輩のセリフのところでは綺麗に声色を変えて、日南が言う。
「おま......ちっ、うるせえよ」
「あははははは! 似てる!」
「ぶはは!」
「ははははは!」
七海さんだけじゃなく竹井と水沢 も笑う。見ていたクラスメイトもクスクスと笑う。
こりゃあすげえ。
「はーい、いまみみみと私で二票ねー。あとはー?」
ちらっと俺を見る日南。......なるほどね。
「俺もこっちに一票」
「おいきたねーぞー!」
どこか悔しそうではあるが明るく野次る中村。これはもう日南の空気だ。てことは次は。
「ほら」
小声でそう言って夏林さんのほうを見てやる。
「......」
無言で手を挙げる夏林さん。
「はい四票! ツボおかしいの修二ね!」
「なかむーお疲れ!」
日南と七海さんによる愛のあるいじり。
「多数決ならしゃーなしだな」
眉をひそめながらおどけた口調で言う中村。
「じゃあリベンジ待ってるね! 友崎くんにもアタファミリベンジしなよ!」
その言葉で教室全体が大きく笑う。なんだこれ。タブーが一気に笑いになった。なんだこれ。
「わかってるわ! 待ってろよ友崎」
演技掛かった言い方と表情で俺のほうを見る。こんな感じでガッツリ目が合うと本気で怒っているようにも見えて怖い。やっぱり人と目を合わせるのは苦手だ。
「お、おう、望むところだ」
みたいなところで家庭科教師がやってきた。完璧なタイミング。
まさかここまで計算の上で......んなわけはないか。
「さっきはありがと葵~! かっこ良かった!」
「あはは、ありがと花火」
授業終了後、中村が教室を出るやいなや、夏林さんが日南に駆け寄って抱きついた。
「私また空気壊しちゃうとこだった」
「だと思った。花火はすぐ表情に出るんだもん」
そう言いながら日南は、抱きついてきた夏林さんをよしよしした。この画だけを見たら微笑 ましいが、また空気壊しちゃうとこだった、とは意味深だ。そこに七海 さんが「たまもお疲れ~! よくがんばった!」とか言いながら夏林さんを真似したような勢いで駆け寄っていく。
そしてそのまま日南ごと後ろから、夏林さんに抱きついた。
日南に抱きついている夏林さん、そしてその後ろから夏林さんに抱きついている七海さん。美女二人に挟まれたちんまりとしたかわいい少女という、華のJKサンドイッチ状態だ。
「こら! 勝手に抱きつかない!」
夏林さんはあくまで上から注意する側みたいな感じで言っているが、七海さんはぜんぜん意に介さない。
「偉いぞ~! 褒めてつかわす!」
そう言うと七海さんは両手で夏林さんの頭をワシワシ、その手を無言でピシッと払われると、そのまま流れるように夏林さんの耳元の髪をかきあげ、なんと耳をはむっと唇で挟んだ。
「ひぁ!?」
その反応を見て七海さんはニコ~とご満悦、その白く細長い指が、はむはむしている耳と逆側の首筋から耳元までをツツツーとなぞる。夏林さんが体をびくっと震わせたのを見計らってか、それと同時に耳をぺろっと舐める。夏林さんはさらに大きくびくびくっとする。
「こら、みんみ......! それは......ぁっ! くすぐっ......つぁっ!」
我慢できない、という感じで声を漏らしながら日南にぎゅぅぅっと抱きつく夏林さん。七海さんは半目に上気した頬 でうっとりとした表情、温かそうな吐息をはぁっ、とこぼす。
「こらみみみ、やりすぎ」
日南が呆 れた口調で優しく頭をコツンとやる。七海さんはうっとりとした表情のまま日南のほうに目をやる。そしてニターっと笑う。日南は軽く後ずさろうとするが夏林さんに抱きつかれていて十分に下がれない。それを察してか、夏 林さんは日南から離れるが、時すでに遅く七 海さんの間合いの中っぽい。
「ふぅん......? 葵そーいうこと言うんだー?」
いままでと同じような明るい言い方だが、どこか悪戯っぽい、大人びた空気も感じる。
「えいっ」
「んぁっ!?」
七海さんは日南の右の脇腹を軽くつついた。日南はこれまでの様子からは想像もできないような艶っぽい声を漏 らす。そのまま七海さんは人差指と中指を歩かせるようにして、脇腹からワキの下までをつん、つん、つんと順につついていく。ゆっくりと焦らすような手つきだ。
「葵はここ弱いんだもんねぇ?」
「こ......ら! みみみ...!」
たまらず両ワキを閉じ、歩いてくる手を払う日南。すると七海さんはその隙 を突いたように夏林さんから離れ、スゥッと日南の後ろに回り込んだ。そして右手を日南の腰のあたりから前に回し、日南のシャツとスカートの隙間から左側の脇腹のあたりに手をつっこんだ。さらに気づけば左手は日南の顎を優しく掴 み、その人差し指で唇に触れている。同時にその左肘で日南の左腕の自由を奪ってもいる。なにこの技。
「え、なぁに? なんか言った? 葵~?」
七海さんはそこで一度動きを止め、日南の頬に息がかかるくらいの距離でそう囁いた。
「だから、やめ、ひゃっ!?」
日南が喋 り始めたと同時に、脇腹に直接触れている七海さんの右手がぐるりと円と描くように動く。喋り始めたタイミングでのそれだったので日南は大きく声を漏らしてしまう。俺含めるイケてない男子たちが無表情を装いながらそれを眺めている。
「なぁに? もう一回言って?」
「いい......加減に......」と言いながら日南は自由のきく右腕を肘から曲げ、少し前に出す。これはあれだ。肘打ちの予備動作だ。
「えいっ♡」
「んっ!?」
唇を撫 でていた左手がいつの間にか、日南を抱きしめるような形で右のワキに差し込まれた。それを受けて日南はギュッとワキを閉じてしまい、肘打ちは失敗した。七海さんはそのまま首から顔を前に回し、キスをするんじゃないかってくらいに日南に顔を近づけて、「残念♡」と満足そうに言った。淫 靡な笑みだ。......するとなにを思ったか、日南のほうも顔を七海さんのほうに向けた。そして見つめ合った。両者とも潤 んだ瞳。え、なにこれなにこれ。
そのまま日南は七海さんの唇に唇を近づけていく。え? まじで? そして触れるか触れないかくらいのギリギリの距離、日南はほんの少しだけ唇をひらく。七海さんもそれに呼応するようにゆっくりと唇をひらく。近づいていく。そして。
ふ──っ。
「ふあぁ!?」
日南が七海 さんの口の中に、勢いよく息を吹き込んだ。その不意打ちにたまらず七海さんは拘束を解き、そのまま後ろへ数歩下がる。七海さんは指の腹で唇を押さえながら日南のほうを、悔しそうな楽しそうな満足気な笑みで見ている。頬 が赤い。
「......うーん、やっぱり葵にはかなわないなぁ」
日南は呆れた表情。そして少し子供じみた言い方でこう言った。
「もう、ホントみみみってバカ! これで参った?」
「うーん、参ったっていうかぁ......」潤んだ瞳で上目遣い。「次は負けないぞ、みたいな?」
そう言ってぺろっとおどけたように舌を出す七海さん。そしてキャピッとウインク。
「こら! みたいな? じゃない! もうセクハラは終わり!」
びしっと指を斜め上に向けて七海さんを指しながら言い放つ夏林さん。
「あっはっは。相変わらず葵には懐いてるなあ」
「そういうことじゃない!」そして目を背けて。「......さっき、みんみもありがとね」
夏林さんは突然真剣なトーンで言った。真っ直ぐな目だ。
「......なにがー? 私はなんもしてないよ~」
「もう! そういうのいらない! いいから素直に感謝を受け取る!」
「えーっ? たまはたまに難しいこと言うなあ。......あっ! たまだけに!」
七海さんはおちゃらけてはいるが、なにやらやっぱり意味深な会話だ。ありがとね、ってのは、さっき七海さんがずっと明るく楽しく振る舞ってくれたことを指しているのだろうか。だとしたら、たしかにあれは助かった。
百合 の楽園みたいな光景が終わったためか、観客の男子たちがソロソロと去っていく。俺もそこに交じって去ろうかとも一瞬思ったが、思い直して三人のところへ歩いていく。当事者の一人だし、日南もいるならいくらかやりやすいし、なによりそのほうが目標に近づきそうだからな。
「あー、日南......さん、さっきはありがとなー。すごい助かった」
俺の言葉を営業スマイルとは思えない自然な笑顔で受け取る日南。二重人格者かよ。
「全然いーよ! それより友崎くん、意外とおもしろいね。後ろで聞きながら笑ってたもん」
口調の女の子っぷりに笑いそうになる。
「いやいや、思ったことそのまま言ってただけなんだけど......」
「らしいね」
「あははははは! まだ言ってる!」
日南が微笑む隣で七 海さんが爆笑している。
「七海さん笑いすぎ」
「あ、ごめんごめん......てか、みみみでいいよ!」
「え、......と」
「七海さん、って、もう先生くらいしか呼んでないもんね!」
日南だ。そう呼べ、という命令だよなあこれは。まあいいか。名前呼び捨てとかよりは。
「えーわかった、みみみで」
「よろしくね友崎!」
「花火はどうする?」
「なんでもいいよ?」
「じゃあ......たま?」日南がそう提案した。
「葵!?」夏林 さんはびっくりした表情で日南のほうを向く。
「あはははは! いいじゃん! 友崎、私とたま仲間だね!」
「え......と、たま? ってなんで? 夏林花火、だよね?」
「あのねー、ほら、花火ってたーまやーとか言うでしょ。だから! あとかわいいからね!」
七海さ......みみみはノリノリで説明する。
「そうそう! いいじゃんたま!」
「葵も裏切るの!?」
これも命令だよなあ。ちょっとハードルは高いけど、まあ、名前呼び捨てとかよりは。
「えーと、じゃあ、たま...ちゃん?」
「あはははは! そう言うとほんとに動物の名前みたい!」
「人の名前で遊ばない!」
「えーと、じゃあ......?」
俺は混乱する。するとたまちゃんは考える素振りもなく、
「いいよ? たまちゃんで。......もう慣れちゃったし」
いやそうな表情ではない。むしろ、この場にそぐわないほど真っ直 ぐな表情。この少しおどけたような空気の場でこの表情ってのは不思議な感じだけど、まあ、これなら嘘はなさそうだ。
「......じゃあ、えーと、たまちゃんで。......よろしく」
「いちいちよろしくとかいらない!」
「ははは」変な子だ。
そしてその四人で、教室までの一~二分間の移動を、なんとか会話に入りつつも乗り切ったのであった。まあ完全に日南に引っ張られる形でしかなかったけどね。ちなみに『みんみ』の理由は『みみみ』が言いづらいからってだけらしい。
──こうして、想像していたよりも割りと激動の初日が終わった。
放課後の第二被服室で待っていると、程なくして日南がやってきた。
「......おう」
「どうも。それじゃあ早速、始めるわよ」
「あ、ああ」
思ったより厳かな感じで始まったのでちょっと緊張する。
「......まずは、ミッション完遂おめでとう」
ねぎらわれた。
「あ、ありがとう」
「まあ実際のところ、話しかけたか向こうから話しかけてきたか、みたいな問題はあるけれど、ノルマの三人より一人多い四人と喋ったわけだし、大目に見るわ」
「ああ、それはよかった、そこ不安だったんだよ」
実際四人中三人は自分から話しかけたわけではないし。
「で、どうだった? やってみた感想は」
「感想って?」
「なんでもいいわ、一番印象に残ったのはなに?」
「いやもういろいろありすぎて......」頭を抱える。「でもまあ、一番印象に残ったのは......家庭科室の......アタファミの件だな」
「アタファミの件?」
「ほら、クラスのみんなが見てる前で、中村がアタファミに負けたことを言葉にしただろ」
「ああ、それね」日南は苦笑する。
「しかも笑いにして。あれは、びっくりした」
「まあ、反省会だから、私じゃなくてあなたがしたことについて話したいところだけど......」
「あ、そうだよな」
「いいわ。あれはいずれ必要なことだったのよ」
「必要?」
「ええ。中村はあなたに負けたってことを、かなり根に持っているように見えたわ。触れてほしくないというか、黒歴史というか......よっぽどボコボコにしたのね?」
「まあ......完膚なきまでに」
「やっぱり」また苦笑。
「まずかったか?」
「別にまずくはないわ。ただ、それを周りが腫れ物扱いして、触れなかったのがまずかったの。そのせいで、負けた悔しさとか、それに誰 も触れない学校での気まずい空気とか、そういう行き場のない感情が、どこにも発散できずに、中村 のなかに溜まっていったのよ」
「そういうもんか」
「ええ。そこから時間が経つにつれてもっと溜まっていって、風船みたいにパンパンに膨 れあがっていたのよ。だから、もっと触れづらくなっていった。まあ、私が見るにね」
「なるほど」
「そうなったら、中村はあなたにどんどん辛辣 になっていくし、その風船の空気を抜くのも難しくなっていくわ。中村はクラスの中心人物だから、彼があなたに辛辣だとあなたの立場は安定しない。リア充を目指してるんだからそれじゃまずいわよね。だからできるだけ早く、風船に針を指して、爆発させる必要があった」
「爆発」
「ええ。チクっと、みんなの前で、それを口にして、笑いに変えるだけ、ね」
笑いに変える。......簡単に言うけどそれって。
「簡単なことじゃないだろ」
「ええ。そうね。まあ、技術的にはそこまで大したことはないけれど、私以外にはできないでしょうね」そしてニッコリと笑う。「やる勇気がなくて」
「な、なるほど......」やだこの人ちょっと怖い。
「ま、私が今回やったのはそういうこと。中村の態度も少しはやわらかくなると思うわ」
まさか、そんなに色々と考えた上でのあの派手な行動だったとは。
「で、話を本題に戻すわ。今日、あなたは自分の行動で、なにが一番印象に残った?」
自分、ねえ。
「えーと、自分の、会話の機転の利かなさかなあ」
「機転、っていうと?」
「なんて言うんだ? その場を盛り上げるために気の利いたことを言う、みたいな」
「なるほどね......。でも、家庭科室では、結構盛り上がってたみたいじゃない。ちょっとびっくりしたわよ」
「ああ......あれは違ってな」
「違う?」
「あれはただ、自分の頭のなかで考えていたことをそのまま言ったら、それが偶然ウケただけで。だから、コミュニケーション、みたいな、そういう感じじゃなかった」
「考えたことをそのまま言ったから、コミュニケーションじゃない?」
推し量るような眼差し。
「ああ」
「あなたは一つ、勘違いしてるわ」
「え?」
「いい? 会話っていうものは本来ね、『自分の頭のなかで考えたこと』を相手に伝え合うものなのよ」
「え、それって......、エゴの押しつけ合いみたいな感じにならないか?」
お互いがお互いの意見を尊重して、共感しあうことが会話じゃないのか? みみみみたいに。
「違うわね。あなたはもしかしたら、相手の考えをすくい取って、それに同調したり共感するのが会話だと思っているかもしれないけれど、それは会話の本質じゃないわ」
こいつの言うとおり、たしかに俺は同調や共感が会話だと思っている。
だって、世の中の大人も、クラスメイトとかも、みんなそうやってる。少なくとも俺にはそう見える。そして俺はそれが苦手だから、どこにいても息苦しいのだ。
「違うのか?」
「違うわ。まあたしかに、相手が言ったことを無視して、関係なく自分の考えだけを言ったらエゴね。でも、今回はそうじゃなかったでしょ?」
えー、と?
「そう、だっけか?」
「ええ。あなたはこう説明してたわ。みみみの言葉を聞いて『今の若い子って共感能力高いなあ』って思った。だからそれを伝えた。ってね。ってことは、ちゃんと相手の言葉を受けて、自分で考えていたってことじゃない。なら、エゴじゃないわ」
「まあ......そう、か?」
「たしかに、とりあえず同調と共感だけしていたほうが場が円滑に回ることも多いわ。でもね。人間の直感って意外と鋭いの。そんな人はいずれ 見抜かれる。だから結局、長期的に見て、最終的に信頼されるのは、相手の言葉を聞いて、とりあえず同調するのではなく、一度自分で考えて、それで出た答え をそのまま伝える人なのよ。そして、あなたはそれができていた。それができなくて悩んでいる人もたくさんいるくらいなのよ」
「な、なるほど」
わかるようなわからないような。
「だからね、今回のあなたの実践は、その部分に関しては、初めてにして大成功よ」
マジか。大成功、とまで言われるとうれしくなる。
「けど、他の部分に関してはダメダメね。いいとこなし。菊池 さんの件なんて最低。ティッシュ貸してって言われて貸したらマスクの下が笑ってて、その上鼻をかむ姿を隠さずに見せつけるなんて、最低に最悪の上塗り。地の底に沈んでもまだ足りないわ」
「日南さん......飴と鞭の鞭が強すぎます......」
「なに言ってるのよそれだけじゃないわ。あなた、家庭科室で、私がいないときに話しかけたでしょ。言ったわよね? 必ず私がいるときに話しかけなさいって」
「いや、あれは......」
「いい? 今回は中村 が乱入してきたのが私が来てからだったから助かったけど、もし順番が逆だったら、どうなってたかわかる? 花火 が怒るようなことになっていたかもしれないし、あなたがなにか見世物 にされてたかもしれない。そうなったら目標達成まで遠のくのよ?」
「ご、ごめん。......って、え。てことはそれってつまり、日南がいるときにしろって言ったのは、いざというときに助けられるようにってことか?」
「そりゃそうでしょ。ちゃんとやったかどうかが知りたいだけなら、あとで女の子本人に確認するでもなんでも、やりようがあるもの」
「ひ、日南......」
優しい......。
「ねえ、あなたひょっとして、私があなたを心配して、とかだと思ってないわよね? 目的達成のためにがんばるって決めたんだから、そんなことで無駄にされては困るってだけよ?」
「あっ、ですよね」
「それに、助けるためだけじゃないわよ。あなたが話しかけたときの、女の子の最初のリアクション、そこからの会話の空気、あなたの会話の技術、その辺をちゃんと見た上で、今後の方針を決めたかったの。誰と仲良くする方向で行くか、どんな練習をするかをね」
「そ、そんなとこまで考えてたのか」
「あたりまえじゃない。ボスに挑むとき、相手の能力に自分のレベルが適正かどうかを確認しないで臨んでも、勝てやしないでしょう?」
「それは......」心の底から。「まったくもってそのとおりだな」
......ホント、ゲームの話になるとどうしても気が合ってしまう。
「さて。それで、今後の方針なんだけど......ちょっと、マスク取ってみて」
「ん、ああ」言われたので取る。満面の笑みが白日の下に。
「ちょっと、普通の顔に戻してみて」
言われたので戻す。
「うん、なるほど、常にやってるだけあるわね」
「え?」
「ほら、わかる?」
「あー」
手鏡をつきつけられてちょっとびっくりした。普段の状態に戻したつもりだったけど、前に突然つきつけられたときよりも確実に口元が、なんというかキュッとなっている。
「二日とちょっとで変わるものね。しっかりやってたみたいね、偉いわ」
「ああ、まあ、常にやっとけって言われたからな」
「うん......これなら大丈夫ね。これからは、常にじゃなくてもいいわ。人と会話するときとか、疲れてきたらゆるめてもいい。マスクも 人前では外していい。ただ、たまに鏡で口元をチェックして、自然に締まった口元になる力の入れ具合を覚えて、ずっとその状態にできるようにすること。それ が無意識にできるようになったら、この訓練は終わりよ」
「おおそうか! わかった!」
進歩してるのかこれでも。よし、これは日々やっていこう。
「......と、以上ね。他になにか気になることはある?」
「そうだな......夏林さ......たまちゃんの件について......なんというか、あのとき様子が」
「......ああ、それね」日南が難しい表情に変わる。
「あ、別に言いづらいこととかだったらぜんぜ」
「あの子はすごく頑固と言うか......素直でね」
俺を遮り、難しい表情のまま言葉を続ける日南。
「場がこういう空気だから、みたいなのに従わないのよ。自分の思ったことだけをやるの」
「へえ。......最近の子にしては珍しいな」
「そうなの。だからそういうところが仲の良い友達からは好かれていて、私もとても好きなんだけど、合わない子もいるみたいでね」
「まあ、そうだろうな」そういうのって最近の若い子っぽくない気がするし。
「で、特に中村みたいな、その場の空気を動かして人とコミュニケーションを取るタイプとは相性が悪いのよ」
あー。
「なるほど。そうかもな」
「だから、何回かちょっと......揉め事になってるの。花火自 身もそのことがトラウマになってるみたいだし、責任も感じてる。けど逆に中村は中村で、そんな頑固な花火をなんとか一回従えよう、みたいにムキになってい るところがあるわ。これはプライドとかなんとなくの意地みたいなもので、悪意ではないんでしょうけど。......私にはそう見えるってだけだけどね」
「あー、でももしそうだとしたら......それはかなり面倒くさいな」
と俺が言うと、
「そうなのよ! 私がいるときだったら今日みたいになんとかできるけど、中村相手だと私以外じゃ難しい。私の見てないところで花火にまたトラウマができるかもしれない。けど私がずっと花火についてるわけにはいかないでしょう? ......だから、難しいのよ」
と日南は珍しく、感情が見え隠れするような口調で言った。
「......お前にも、どうしようもないことってあるんだな。なんでもできると思ってたよ」
俺がなんの気なしにそう言うと、日南はいつか見た憂いのある顔でボソリと「私は、なんにもできないわよ」と言った。
「え?」
「......とでも言うと思ったかしら? 私にできないことなんてないわ。いつか、花火についても解決してみせるわ」
「そ、そうか?」
日南はいつもの自信満々な表情に戻っている。......冗談? なんという演技力の無駄遣い。
「でも、上手いこと立ち回れって言ったって聞かなそうだしなあ......た、たまちゃんは」
「そうね。......それに、あの子にはそんなことをしてほしくないわ。裸のままの心をそのまま言葉にできる子って珍しいもの」
「まあ、あんな子なかなかいないな」
「花火はいつだって心が裸のままだからこそ、心の防御力も低いの。だから、誰 かが鎧になったり、誰かが飛んでくる攻撃の矛先 を逸らしてあげないと、すぐに心がボロボロになっちゃう。......まあ、花火に関してはそんなところね」
「なるほどなあ」
俺が感心しながら頷いていると、日南は「だから、意外にあなたと相性がいいかもしれないわね」なんてことを言った。
「え? そうなのか? なんで?」
「......まあいいわ。とりあえず、今日あったこととか学んだことを一晩、自分なりにも考えてみて頂戴 。ただ指示に従うだけじゃ成長のスピードは遅いわ。納得がないと。いい?」
「んん、ああ、わかった」
「じゃあ、今日はこんなところでいい?」
ああ。という俺の肯定の言葉を聞くと日南は、俺に第二被服室を発つよう指示した。日南もそこから時間差で発 ち、帰路へつくとのことだ。俺は異論なく帰路につき......あとで気づく。こういうのってレディファーストのほうがいいよな、リア充的には。まだまだだぜ俺。
***
寝る前ベッドの上。自分なりに考えろと言われたけどなにから考えればいいのだろう。正直人間関係というものに関しては圧倒的に経験値が足 りていないし、今回だけの経験でなにか日南以上の正確な分析をしろと言われたら尾を巻いて逃げるしかない。とにかく今回俺が感じたことは、思った以上に集 団という戦場では空気という見えない怪物が幅を利かせているのだなということくらいだ。じゃあその空気ってもんとどう戦えばいいのかなんてことは皆目見当 がつかないし、そもそも戦うって表現が適当なのかどうかすらもわからない。わかるのは、その見えない怪物を飼い慣らすのが上手い日南とか中村 みたいな猛獣使いが集団という戦場を制しているということくらいだ。円形のコロセウムで日南と中村が向かい合い、中心にいる巨大で異形の化け物を互いに得意な武器でいなし相手を食わそうとしている。中村は鞭 、日南はマント。みたいな画 が頭に浮かぶ。互いに直接手は下さない。あくまで空気に殺させる。そこで俺が戦えるのだろうか。少なくともイメージは湧 かない。そんなふうに考えながらその日は眠りに落ちた。
──ちなみに、日南からの『十九時半に五本先取』という感情ゼロな文面でのメールから始まったフレンド対戦は、俺の五本連取という形で幕を下ろした。まだまだ甘いね。
「今日から姿勢も矯正していくわ」
翌日朝の日南の指令はそこから始まった。
「姿勢」
「ええ、姿勢ね。覚えてる? 見た目に大事なのは、表情、体格、姿勢って言ったの」
「ああ、覚えてる」
日南の部屋で話したときに言っていた。
「その三つがなんとかなれば基礎は終了よ。あなたは体格はまあ標準くらいだから、表情と姿勢さえ治れば合格点よ。マスクトレーニングで表情はなんとかしてるから、あとは姿勢だけ」
意外とゴールが近い。
「でも、姿勢って、なにすればいいんだ? ていうかそもそも俺ってそんなに姿勢悪いか?」
「まあ、悪いは悪いんだけど......というより、世の中の人はだいたいそんなに姿勢よくないのよ」
「あ、そうなのか。じゃあそんな中でいい姿勢になることで目立とうってことか?」
「まあ、半分正解半分不正解、ってところね」
「半分?」
「悪い姿勢にも色々とあってね」
と言いながら日南は、がに股で膝 を曲げ、首を反らし、肩を大きく揺らしながら歩き出した。
「これも悪い姿勢だけど、威圧感があるわよね。ベストではないけれど、リア充側の姿勢ね」
「ヤンキーみたいだな、強さを感じる」
「ええ。それでこれは......」
今度は背中を丸め、首を前に突き出し、肩を内側に入れて歩き出した。
「これも悪い姿勢。けどこっちは弱々しい印象になるわよね」
「あー。たしかにオタクとか文化系っぽい」
運動ができなさそうな感じに見える。姿勢で結構変わるもんだな。そんでよく再現できるな。
「つまりね、人はみんな、だいたい姿勢がよくないけれど、非リア充の人たちは、よくない姿勢の中でも弱々しく見えるタイプの姿勢になっていることが多いってことよ」
「そうなのか? なんでだ?」
「そうね。これはいろいろと理由が考えられるわ。非リア充はパソコンやゲームをよくするからそういう姿勢になりやすい、とかね」
「なるほど」
「けど、一番大きいのはおそらくそこじゃないわね。心と体の問題よ」
「心と体?」
「そうね、じゃあ試しに、胸を大げさに張って、両手を腰に当ててエッヘン、のポーズをしてみてくれる?」
「こ、こうか?」
どっしりと構えてみせる。
「......どう? 姿勢を変えるだけで、少し気が大きくならない?」
「......ホントだ」たしかに、胸張ってエッヘンのポーズをすると、それまでよりも少し自信というか、オレはオレとして行くぜみたいな気持ちが強くなった。「......いや、でもこれ、そう言われたからそう感じたとかじゃないのか?」
「まあ多少はそうね。けど例えば緊張したら腕を組む、とか、リラックスしたら足が開く、肩の力が抜ける、みたいに、心と体っていうのは密接に結びついてるのよ。逆に、悲しいときでも表情だけ笑顔にすれば、実際に悲しい気持ちが薄まるっていうのも有名な話でしょ?」
「あー、まあ、言うな」
「体がど~んと構えたら心もど~んと構える。逆に、心がしゅーんとなったら体もしゅーんとなる。どっちかが必ず先とかはなくて、セットで動いてるの。で、リア充は、心がリア充だから姿勢も自然とリア充っぽくなるのよ」
「なるほどねえ」
「まあ、だから......」と言うと日南は、スラっとスタイルがよく見えつつ威圧感のない、それでいて自信となにか大人っぽいオーラを感じる姿勢で歩き出した。
「ここまでの姿勢になる必要はないわ。ていうか、これは本当に一朝一 夕でどうにかなる問題じゃないわ。骨盤の歪みとか筋肉の癖 を長い時間かけて正していかないとこうはならない。でもあなたにはそんなことやっている暇はないわ。必要もないしね」
すごい。本当になんでもできるなこいつは。
「じゃあ、どうなればいいんだ?」
「その弱々しい雰囲気さえなくせばいいのよ」
俺の胸辺りを指さす日南。
「......どうやって?」
「これには簡単な矯正方法があってね......こっち来て」
え? と言いながら従う。
「壁に腰と肩をつけて。で、かかと同士をくっつけたまま、つま先を左右にひらいて」
言われたとおりにする。
「わかる? いま、おしりの筋肉に力が入っていること」
「ん? あ、そうだな。ホントだ」
気づいたら自然とけっこう力が入っている、とか思っていたら壁際に立つ俺に日南が真顔で近づいてきた。え、なに。ごく至近距離にやたらと整った女の子の顔がある。背後が壁だから後ずさりできないんだけど。この高級感と清潔感のある匂 いはシャンプーですか。そして日南はゆっくりとこちらに手を伸ばし、
「うん、いいわね」とか言いながらおしりを触ってきた。
「うおおお!? な、な、なに!」
「チェックよ。おしりを触ったくらいで騒がないでもらえる? 男でしょう?」
「いや! そういう問題じゃ!」
つーかやめろよ心臓に悪い! なんか無駄に暑くなっただろ!
「......なによその顔? でも、いい感じだわ。それじゃあそのおしりの力の入れ方を維持したまま、つま先とかかとを普通の状態に戻して。それでそのまま、壁に肩と腰をくっつけて。おしりの力はそのままよ」
と、何事もなかったように指示される。俺はそれにアセアセと従う。
「こ、これでいいか?」
「ええ。......ほら、わかる? さっきよりも堂々としているのが」
......なってる。気がつかないうちに。
「ホントだ」
「そのまま壁から離れて......これで弱々しくない姿勢になってるわ。......うん、なってる」
少し離れて全体を見て日南はそう言う。まじか。
「これ、地味につらいな」
「そうね。普段使ってない筋肉を使っているからね。けど今後、立っているときは常に、この状態にすること。できれば座っているときも胸を 張って、おしりの筋肉に力を入れることね。とにかくあなたみたいな姿勢の人は、胸が開けていなくて、おしりの筋肉がダルダルなことが多いの。だから、常に 胸を開いて、おしりには力を入れておくことを習慣化させなさい」
「またか、『常に』」
「あたりまえじゃない。いまやってるのはキャラクターメイクよ。基礎能力をどうにかしてるの。常にその状態を維持できていなくちゃ基礎能力とは言えないでしょう?」
まあ、たしかにな。
「わかった。それで、今日やることはそれだけ......じゃないよな?」
「もちろん。それをやりながら、もうひとつよ」
やっぱそんな甘くないよな。
「なにすればいいんだ?」
「今回はあんまり難易度は高くないわ。一日のうち何回か、私と一緒に行動して、みみみとか花火 とか、あと他の私と仲のいい男子と何回か喋るだけよ」
喋るだけ、か。軽く言ってくれるね。
「まあ、お前がいるぶん昨日よりは簡単か」
「そうね。で、今週は金曜までずっとそれが課題よ」
「四日間ずっとそれか」
「ええ」
けっこうやるんだな。把握。
「でさ、それをして俺はなにを学ぼうとすればいいんだ?」
そこを理解してやらないと効率が悪そうだ。
「へえ、積極的になってきたじゃない。いい傾向よ」
「そりゃどうも」
「まあ、それは簡単よ。経験値稼ぎね」
「経験値稼ぎ?」
「ええ。ほら、よくあるでしょ? RPGで、序盤で一時的にものすごく強いキャラクターが仲間になって、強い敵と戦う、みたいなイベント。そのあとパーティから離脱して、終盤に重要キャラになったり、またパーティに加わったりね。その頃 には主人公たちもそのキャラと同じくらいの強さになってるの。そこで『ああ、成長したな』って思うのよね」
ゲームの話をするときのこいつはいつも楽しそうだ。
「ああ、たまにあるな。なんでそいつのほうは成長してないんだ! って思ったりな」
「そうそう!」と日南は弾んだ声で返事をし、そしてゴホンと咳払 い。「......とまあ、それと同じよ。私と一時的にパーティを組んで、強い敵と戦うの。それで経験値を稼ぐ」
「なるほど」
ハンデ戦でレベル上げか。
「ついでに情報集めね。RPGでも一回ボスと戦ったら、相手の行動パターンがわかって、次に戦うときにどうすればいいかわかるでしょう? 弱点とか、与えてくるダメージ量とかね。そうしたら次はどうやって攻めて、どのタイミングで回復したらいいかわかるわよね」
「そうだな」
「やることはそんな感じよ。実際の会話の流れを、なんとなく見て学んでもらうわ」
学ぶ、ねえ。このままだと、ただ理解できないまま会話が流れていく気がする。
「漠然と見て考えるくらいでいいのか? なにか見るべきところとかないのか?」
日南は少しだけ考えて、
「そうね......それじゃあ、これから四日間で二十人くらいとは会話をすることになると思うけれど、その会話を、なんとなく分析するといいわ」
「分析?」ていうか二十人ってすごいな。
「ええ。会話の運び方や、距離の詰め方。そういう会話に関するそれぞれのやり方を、自分なりに考えておくってことよ」
「なるほど......分析か」
できるかわからないが、まあやるだけやってみよう。
「それで......俺が急に知らない人との会話にうまく入れるとは思わないんだけど、それは?」
「ああ、それは入らなくて大丈夫よ」
「え?」
「今回は観察することが目的だから。まあ、不自然にならない程度には私がするから安心して観察しておいて」
任せてしまって大丈夫......なんだろうなあたぶん。
「そんなところね。それじゃあ今日は放課後声をかけるから、自習でもして待ってて」
「放課後? 今日はなにをするんだ?」と聞くと、日南は当然のようにこう言った。
「みみみと花火、あと男子数人を集めて駅まで帰るんだけど、あなたはその中に交ざるのよ」
「ええ!?」
ちょっと会話するくらいじゃなくて、ガッツリ一緒に帰宅を!?
***
「そーだよ。みみみ知らなかったんだ?」
「知らなかったよ~。え、なにこれみんな知ってたんだ?」
「うん、知ってたよ」
「まあ葵は知ってるよねぇ」
「俺も知ってたよ」
帰路。後ろの黒板に描いてあるやたら上手い絵を描 いたのは、実はここにいる松本大地だった、みたいな話題で盛り上がっている。あとは男子の橋口恭 也だ。もちろん俺は除け者。だが。
「友崎くんは?」
こういうふうに随時、日南が俺に話題を振ってくれる。
「えーと、前描いてるとこ見たことあるから知ってたよ」
「え! 友崎が知ってたのに私知らなかったの!?」
「それ失礼! あはは」
そしてこんな具合にちょっとだけ話を広げてくれてまた別の人がしゃべる、というのがパターンになっている。俺はその日南のパスを、最低限 台無しにだけしないよう、無難に無難に受けてトスを上げている。とりあえずボールを地面に落としさえしなければ、どんなにめちゃくちゃなほうへ飛ばしても 日南が次の一手で相手のコートに打ち返してくれる、という感じだ。
だから俺は今、安心してこの会話を観察することができている。とは言ってもたぶん、ズブの素人だから大した観察はできていない。
「......よな~。いやーほんと疲れるわ」
「昨日から疲れてるもんな、大地」
「あー、ちょっと筋トレしててさー」
「へー!」
次は男同士の筋トレの会話にみみみが相槌を 打つという格好。しかしみみみはすごい。話題も出すし人の話題も広げるし大きく笑って場も盛り上げる。こういう子がいわゆる天然の明るい子というやつなん だろう。俺も少しは技を盗まなくてはいけないのだと思う。新しい話題を出すなんてことはできないから、人の話題を広げるくらいはしてみたほうがいい気がす る。
「えーどこ鍛えてるの?」
「いやもう全身。腕も胸も腹筋も背筋も足も鍛えてる」
「やば」
「あ、じゃあさ」
不意に俺が口を挟む。入れるのはここしかない! と思って。日南が眉をぴくりと動かしてこちらを見る。あれ? まずかった? でももう引き返せないしなあ。やってみるしかない。
「おしりの筋肉とかも鍛えてるの?」
おしり? という空気が皆さんを包んだ。
***
「昨日はホントすいませんでした!」
次の日の朝。第二被服室。日南の顔が見えた瞬間に即謝罪をした。
「......おしりの筋肉の件?」
「そうです! いやホント勝手なことして変な空気にしてしまってすいませんでした!」
『おしりの筋肉の件』ってすごい件だな、と思いながらも心から謝罪する。
あのあと「え? おしりの筋肉って鍛えなくない?」と困惑しながら松本 大地 に聞かれ、「え? なに、ギャグ? なに?」みたいなヤバイ空気が流れたが、そこで日南が「あ、私鍛えたりしてるよ~おしり」とあっけらかんと言ったことでことなきを得た。「葵 のそのナイスバディの秘訣はおしりの筋肉!?」みたいな流れになったのだ。その後俺はおとなしくしていた。
「いやホント勝手なことした挙句......」
「同じこと何回も言わなくていい。別に気にしてないしね」
「え?」
「自分なりに考えて行動した結果なんでしょう? まあ、空回りに終わったけれど、トライしてみたことを褒めることはあっても、責めることなんてないわよ。私はね」
「ひ......日南......」
なんて心の広い......。
「そんなことより与えた課題。変な行動を起こすことばっかり考えて課題をちゃんとこなしていなかったらそれこそ怒るわよ」
「あ、ああ。それは一応やったよ。自分なりに考えて分析、ってやつだな」
「ならいいわ、まだ三日間あるから、それは最後にまとめて聞くわ。それじゃあ、今日はそんなところでいい?」
「あ、ちょっと待った」
「ん? わからないことでもある?」
「いや、わからないことっていうか......事件というか。実は昨日の帰り道にちょっと......」
「......なに?」
警戒気味の日南を横目に、俺は昨日起きたある出来事を話し始めた。
***
「じゃーなー」「じゃーねー」「またねー」
学校から駅に俺含めた六人で到着、そこからはそれぞれの方面の電車に乗ることになる。
「あ、電車来た、私こっち」「あ、私も! じゃーね!」「ばいばーい!」「またね~」
そんなふうにしてそれぞれの方面へ散っていく。日南 は俺と逆方面で、いまの電車で去っていった。つまり俺は、ここから同じ方面に行く人たちとは、日南なしで会話をしなければならない。
とはいえ日南もそこに気がついていなかったわけではなく「まあ、電車の中の十数分くらいなら大丈夫よ。みみみと大地 が同じ方面だから、その二人がなんとなく会話してくれるはずだし。二人ともあなたと最寄り駅は違うし、みみみもいるしね」とのことだった。当然みたいにここにいる全員の最寄り駅を把握していることに戦 慄しつつも、俺は安心した。
そして電車が来て車内。あいつの言ったとおり、コミュ力の権化 みたいな二人だったため、車内での会話はなんとかなった。特にみみみはちょくちょく俺にも話題を振ってくれて、それを必死でグダグダに返すとそれのおもしろいところを見つけて勝手に笑ってくれる。家庭科室でのときのような感じで、バカにされているような感じでもなかった。
だからみみみには、会話に関して日南と同じくらいのすごさを感じた。
そして俺の最寄り駅に着く。これで今日のミッションはクリア! と思っていた。
「あ、俺、ここだから、じゃあまた」
「あ、そうなんだ! 私も! おーし、一緒に帰るぞ~!」
「え!?」
同じ駅!? ちょっと待ってどういうことだ日南さん?
「おう、じゃあな、友崎、手ぇ出すなよ~?」
ちょっと待って! このまさかの戸惑ってる瞬間にそんなキツイ冗談急に言われても!
「い、いあ、だ、だ、出さ、ないから!」
「うろたえてる......! これはワタクシ七海みなみ、貞操の危機でしょうか!?」
「あははははは! いいから、扉閉まんぞ、じゃーな」
みみみと一緒に電車を降りる。
「え、みみみホントに最寄り駅ここ......」扉が閉まる。「......ホ、ホントなのね......」
「え、そーだよ? なんで?」
「あ、いや、なんでっていうか......なんでもないです」
***
「駅違うんじゃなかったのか?」
俺が追及すると、日南は腑に落ちない表情。
「だって......みみみは北与野でしょ? で、あなたは大宮だから違うはず......」
「俺だって北与野だよ!」
「え......?」と更に深く考え込み、そしてハッとした表情で顔を上げた。「......あなた、そんな余計な気が使えたのね......計算外だったわ、私としたことが......」
「なんの話だよ?」
「言ったわよね? 私は。最寄り駅でって」
「だから、なにがだよ?」
「だから、nanashiとNO NAMEのオフ会のとき、あなたの最寄り駅で待ち合わせ、って!」
「......ああ!」そういうことか! 俺は実際の最寄り駅ではなく、気を使って、交通の便がいいターミナル駅を指定したんだった。それで俺の最寄り駅の勘違いを......。
「まあ、後悔しても始まらないわ。お互い水に流しましょう。......それで、続きは?」
「あ、ああ......」
促されるまま、また続きを話し始めた。
***
駅を出て道路を歩く。俺は緊張で歩き方すらぎこちない気がしていた。
「ちゃんと二人で話すの初めてだねー、ってか、普通に初めて話したのも最近か!」
口を開けておでこをペチッとしてタハーッとするみみみ。
「そ、そうだね」
「な~に緊張してんの! どーんと構えろどーんと!」
背中をべッチーンと、妥当なラインよりかなり強めに叩かれる。
「いった! 強い強い!」
「え~。そ~お~?」
カカカッと元気よく笑うみみみ。いつもよりさらに明るいという印象。彼女なりに気を使ってくれてるのだろうか。
「げ、元気だね、みみみは......」
「でしょ~? 元気と笑顔だけで生きていくつもりだからね~私は」
「あはは、それはすごいというか......大変そうというか......」
「大変そう?」顔を覗き込まれる。不思議そうな表情だ。
「え......だってほら、元気にも笑顔にもなれないときもあるだろうし......ねえ?」
みみみは目をぱちぱちとさせる。
「なーに言ってんの! つらいときこそ笑顔! そうしないともっとつらくなるでしょ!」
「あー」日南もそんなこと言ってたな。体と心はリンクする、とかなんとか。「たしかに、言う、よな。姿勢とか表情を明るくすると心も、とか」
「そうそう! だから元気で笑顔のほうが絶対、楽しいと思うわけ!」
へえ。すごいポジティブなんだな、と思うと同時に、なんというか......別にそんなに毎日が楽しくなくてもいいんじゃないのかな、とも思った。いや、俺の毎日が楽しくないことが多すぎて、そのあたりの感覚が麻 痺 しているのかもしれないけど、別に楽しくない瞬間が結構あっても大丈夫だぞ人間、みたいな。それよりも自分の世界を守ることのほうが大切、というか。
とか考えていたら沈黙が続いてしまった。いま俺が喋る番だったよな、うん。そうだな。
「ん、そーでもなかった? まー人それぞれだよね~」
「あ、ごめ、そ、そうだね」
一瞬気まずい空気が流れる。あああああっ! ごめんなさい! 沈黙したあげくフォローされてなお、実のない返事って俺! これがコミュ障の貫禄 か!
「ねえねえ! ちょっと気になってたこと聞いていい?」
しかしそんなの失敗じゃないよとばかりに笑顔で話題をくれるみみみ。やっぱりすごい。
「え? なに?」と返事をすると、手をマイクみたいな感じにして、口元に近づけられた。
「ズバリ友崎選手! 葵 と怪しい関係ですよね!?」
ぶっと吹き出しゲホゲホ! とむせてしまった。
「おっ、やっぱり怪しいですね~その反応。どーいうことなんですか!? ほらほら~! お姉さんに話してみてくださいよ! ん~?」
「いや、なんもねーよ!」
「ホントですか~? みょ──に目配せとかしてるような気がするんですよね~。昨日も最初から葵だけ日南 、って呼び捨てにしかけてましたし~?」
......そんなことあったっけ? っていうか、あったとしてもそんなことに気がつくか普通? リア充ってのは明るいだけだと思わせて空気読みや感情読みスキルに関しては熟練だったりするから油断ならない。ここまで勘づかれてるなら変に誤 魔化してもバレそうだ。
「いやいや! たしかに仲悪くはないけどほら! 日南って誰とでも仲いいだろ!」
「おっ! 呼び捨てになりましたね~。や──ぁっぱり怪しい! 友崎 選手! どうしてあのとき呼び捨てを隠したんですか! やましいことがあるんですか! ズバリ! どうぞ!」
「だからないって! ていうかあの学園のアイドル日南葵が、俺なんかとやましいことあるわけないだろ!」
「たしかに!」
「おい!」即行で納得したみみみに俺はそれはそれでとツッコミを入れる。
「あはははは! いいね! やっぱりたまにおもしろいよ友崎!」
「うるせー、別におもしろいつもりもないし、たまには余計だ」
なんか緊張が抜けてきた。これがみみみの会話のセンスってやつか。それともあの口の悪いゲーマーの話題になったからか。
「そーやって普段から楽しい感じでいればいーのに。暗いもんねーいっつも友崎」
「余計なお世話だ。......ってか、別に俺は楽しくない瞬間があっても平気なんだよ」
「......へ──っ! といいますと? どういうこと? それ!」
やたらと食いついてきた。え、なに言えばいいんだろ。
「いや......なんつーか、楽しいことだけが正解とは限らないだろ......たぶん」
「えーっ! そんなこと言う人初めて見た! 詳しく! ケーダブリューエスケー!」
「けーだぶ......?」......ああ、kwskか。口に出して言うことじゃないだろそれ。「いや、なんて言うんだ? ほら、例えば俺はアタファミとか、ほかにもゲームが好きなんだけど......」
「あー! めちゃくちゃ強いらしいね! それでそれで?」
「うん、えーと......でもそれって学校とかで楽しいのとは、まったく関係ないっていうか。でも俺は、それでもアタファミに時間を割きたいっていうか......」
「ん~。それってでも、そのアタファミが楽しいってことじゃない?」
「あー......まあ、たしかにそうなんだけど、なんていうか......。楽しいことを求めてアタファミをやってるわけじゃなくて、アタファミが好きで、がんばってやってて、その結果楽しさがついてきてるだけというか......いやごめんよくわかんな」
「んー、いや、わかる」
「え?」
「なんかあれだね~。友崎ってそーいうとこ、ちょっとたまに似てるかも」
「......え? たまちゃんに?」
まったくピンとこない。......そういえば、同じようなことを日南にも言われたな。
「んーなんていうの? あの子って自分を曲げないっていうか、曲げられないっていうか、あはは、そこがすごくいいとこなんだけど、ま、そーいうとこがあってね」
「まあ、そうだなぁ」
「あ、友崎 もわかる? 例えば、ほらここ、折れたほうがその場は楽しく回るよ、ってときでも、納得できないと折れないの。それがすごくてさ~。尊敬できるくらい」
「まあ、最近の若い子なのに珍しいよな」
「あはははは! 出たワイドショーおじさん!」
「うるせえ!」
「あははは! ......まあ、でね、そこがすごいなーって思いながら、私にはないとこだな~って思いながら見てるの。だって私なんかもう折れまくり! 折れて折れて折れて、なんとかして楽しくなってやる~みたいな、もうボッキボキなの!」
「え、そーだったんだ」才能で、素であれをやっているのかと思っていた。
「そーだよ~? 実は悩み多き乙女なのです......って、みんなそんなもんだけどね。たまに比べたらぜ~んぜん。私の悩みなんて小さい小さい!」
「たしかにあの子は......大変そうだよな」
「でしょー? わかるわかる? でもだから、折れまくれる私があの子を守らないとねーみたいな、そ~いう感じなわけ! 私! どう!? 泣ける!? 健気!?」
俺の正面に立ってばっと手を広げるみみみ。
「なるほどねえ」考え込んでいるので自然とスルーしてしまった。「それって......みみみはどうなんだ、というか。いやじゃないんだ?」
「え? スルー!? ってか私? なんでぜんぜん! 楽しくなるためにやってるんだから、そりゃ楽しいって! そりゃ折れるのがいやだなーってこともあるけど、それって仕方ないことだしね。人生に百点はない! 折れなかったらもっとつらいから折れるのです! より 楽しくなるほうへ、ってね!」
「......なるほどねえ、適材適所、か」
「そうそれ適材適所! いいこと言うねぇ友崎! 折れるのは私の仕事、折れないのはたまの仕事なのです! そーやって私たちは回ってるってことですよ!」
「で、支えあってると」
「そうそうそれそれ支えあい! 友崎ホントにいいこと言うね! まー、どっちかって言うと、たまのことを私が支えてるって感じだけどね~正確には! だから私はこれでオッケーなわけですよ!」
そう言ってまたタハーッと笑うみみみ。
「んー俺には......」
「あ! 私この道こっち! あ、いまなんか言いかけた?」
「あ、いや、べつに」
「そう? じゃあまたね友崎!」
「あ、うん、また」
そうして大きく手を振って、嵐 のようにみみみは去っていった。まあ、言いかけて言えなかったけどいいか。俺の勝手な決めつけというか推測だし、言わなくて正解だったくらいだろう。
──俺には、みみみのほうが支えられてるように感じるけど、なんて。
***
「ふうん、うまいことやったじゃない」
日南は無感情にそう言う。
「まあ、俺でもできる真面目な話を、みみみが盛り上げてくれただけだけどな」
「まあ、それもそうだけど......あなたにも得意なことがあるってことね」
「......俺に......得意なこと?」
なんだそれ?
「家庭科室での一件のときもそうだったけど、あなたはどうやら『自分の考えをそのまま喋る』のが得意みたいね」
「えーと? 自分の考えをそのまま? それって誰でも得意なんじゃないか? そのまま言うだけなんだろ?」
日南はちっちっちと指をふる。
「それがね、そうでもないの。むしろ苦手な人のほうが多いわ」
「え?」
「例えばみみみ。折れるのが得意なのよね? 自分の考えを言うのが得意だと思う?」
「......あ、そうか。周りに合わせたことを言うのが得意、ってことか」
「そう」日南は頷く。「じゃあ花火 。あの子はたぶん得意よね? 自分の考えを言うの」
「......だろうな」
「あの子みたいなタイプって、多かった? 少なかった?」
ああ......少なかった。なるほど、納得させられた。
「そっか......珍しいのか、これが得意なのって」
「ええ、そうよ。だからこれはある意味あなたの武器、長所、必殺技ね。そして、自分の得意なフィールドで戦うっていうのは、ゲームの基本よね?」
「そう、だな」
「じゃあ、もしなにか困ったことがあったら、それに頼るといいわ。それを覚えといて」
「......わかった」
「まあ、いまの話に特に問題はなかったし、次に進むわよ。経験値を積めてラッキーってくらいね。......引き続き会話のやり方を観察してもらうけど、準備はできてる?」
「準備もなにも......こんなの現場に赴くしか......」
「わかってるじゃない。それじゃあ、気合を入れるのよ。最終日、分析の結果を聞くから」
──こうして再び、三日間のレベル上げ兼、情報集めが始まった。
水曜、昼休みの学食。
「昨日見た? 最終話でどうなっちゃうんだろーって感じだったよね」
「でもあの『戻ってこいよ!』って叫ぶシーン棒読みすぎて笑ったわ」
「あははは! 俺もだわ! あれやばかった!」
「てか友崎目ぇ泳ぎすぎ! ぜんぜんしゃべんないし!」
「ホントだキモ~!」
......ふむふむ。
木曜、放課後駅までの帰り道。
「あーそういえば由美子、昨日大丈夫だった? 父親から鬼電だったじゃん」
「ああ! それがさー! むしろ弟が意味わかんなくてさー」
「え、あのチビの?」
「そうそう! なんか玄関開けたら仁王立ちしてて。デーンって」
「なにそれきも!」
「友崎くんそういうのやってそー」
「あははは! わかる」
......ほうほう。
金曜、休み時間の一幕。
「タカヒロなんかおもしろい話ない?」
「なにその無茶ブリ!」
「あるっしょあるっしょ」
「えー......と......あ、昨日彼女がさあ」
「うわーのろけ」
「ちげーわ!」
「友崎にはそういう話......あるわけないか」
「あははは! 失礼」
......うむうむ。
みたいな感じで。
「さ、どうだった?」
金曜日の放課後の会議。毎日親しくもない集団の中に放り込まれ、観察とほんの少しの実践を余儀なくされていた四日間。地獄の地獄の四日間。今日がその総まとめである。
「心が死にました」
「......まあ、あれは辛気くさいオーラを出してる人間の宿命ね。けど、表情と姿勢と会話を鍛えれば、すぐにあれからは脱することができるわ」
「......ホントですか」
「いろいろ悪口を言われたことは仕方ないと思って。集団ってそういうものだから。五~六人集まればまあ......誰かしら犠牲になるわ」
「......わかりました」
「で、重要なのは分析の結果よ」
「うーん、まあ、いろいろ考えたけど......」
「ええ」
コミュ障なりに必死に観察した結果を超絶リア充に話してお伺いを立てる。緊張。
──俺が気がついたことは、会話での役割分担だ。
会話に参加している人たちに、それぞれ『主に担当する役割』があったように俺には思えた。
その役割とは『新しい話題を出す人』『話題を広げる人』『リアクションをする人』の三つ。
例えば月曜日、こんな会話があった。
『て言うか聞いてよ! 昨日塾でさあ......』
みみみはいつもこういうふうに『聞いてよ』とか『そういえばさ』とか『昨日さあ』みたいな言葉から話し始める。いままでの話題とあまり関係がないことを新しく投げかけるのだ。会話はまずこういう、『新しい話題を出す人』から始まる。当然の話だけど。
また、その話題を、だったらこういうこともあって、とか、それってこれに似てるよね、みたいに展開させていく人もいる。これが『話題を広げる人』だ。
そしてそれを聞いて、相槌や笑い、たまに自分の意見も発信して、楽しむ人。それが『リアクションをする人』。てな感じだ。
そして話題が収束したころにまた『新しい話題を出す人』によって新しい話題が投げかけられる。
もちろん、『話題を広げる人』や『リアクションをする人』が新しい話題を出すこともあるし、『新しい話題を出す人』が聞き役に回ることもある。けれど、集団によって、主にやっている役割がなんとなく決まっているように見えたのだ。そしてもうひとつ。これも月曜日。
『うわーそれは先生絶対わざとだろ』
『やっぱそうだよね!?』
『みんみ好かれてるんじゃない?』
『え!? 逆に!?』
というように、橋口恭也 とたまちゃんは主に、話題を広げる役割だった。するとだ。二人ともずっと会話の輪の中には入っていたのだが、なぜかなんとなく『空気の中心』にはいないような感覚を受けたのだ。
『そういえばさ、単語覚えた? 急に百個とかきついよな?』
これは水曜、とあるリア充の中心人物の言葉だ。
重要だと思ったのは、会話している人は全員少なからず『話題を広げる』ことはしているが、新しい話題を出しているのはほぼ、決まったメンバーだけだということだ。月曜日で言えば松 本大地、みみみ、そして日南 だ。たまちゃんと橋口恭也が新しい話題を出しているところは、ほとんど見なかった。長期的に見れば出すこともあるのだろうが、明らかに数が少ない。だからたぶん、新しい話題を出さないと『空気の中心』にいるような印象は与えられないのだろう。
まあ、だからなんだと言われたらわからないが、気がついたことはそんなところだ。
「......で、たまちゃんと橋口恭也は話題を出してなかったから、空気を握ってないように見えた、と。そんな感じかな」
日南は黙って頷いた。
「なるほどね。その内容、普通の人が聞いても『で? それなんの意味があるの?』としか思われないような当たり前なことしか言ってないわ」
「で、ですよね......」
自分でも思っていただけに心に突き刺さる。
「──けど、私やあなたみたいに、物事をとらえるとき、その目的や原因に注目が行くタイプにとっては、それは大きな気づきよ。さすがね、nanashi」
ダメージ食らっていたら褒められた。
あれ、嬉しい。まんまと飴と鞭にやられてるって感じがある。
「そ、そうなのか?」
「だって、これであなたにもわかるでしょ? 会話がうまくなるために必要な、二つの要素」
......あ、なるほど。わかるな、それ。
「『新しい話題を出すこと』と『話題を広げること』を上達させる、ってことか」
「おにただね」
「え?」
「だからあとは、どうすればその二つがうまくなるのか、ってことよ」
「待て待て待て待て。もう三回目だぞ、そのおにただっていうの。なんだそれ?」
「......」
黙った!
「......そうね、三回目だしもういい、あきらめるわ。口癖 よ。間違えてたまに言っちゃうの。知らない? 小さい頃好 きだったのよ、レトロゲームの『ゆけ! うちまくりブイン』のブインのセリフ。正直、恥ずかしいから今まではなんとかごまかそうとしていたけれど、もう面 倒くさいわ。どうせ言わないようにしてもいつか言ってしまうし、これからはどんどん使っていくことにするわ。だからあなたもいちいち突っ込まないでもらえ る? 終わり」
な、なんだこいつ。勝手にいっぱい喋って開き直って自己完結しやがった。
っていうか。
「ああブインか! 聞き覚えあると思ってたんだよ! 思い出した! あれ好きなのか!」
「......ふうん。あれを知ってるなんてさすが日本一のゲーマーなだけあるわね。皆なかなか知らないのよね、あのゲーム。あんなに名作なのに!」
日南は珍しく声色を弾ませる。
「ホントだよな! 小さいころ友達んちでやったなあ。豚のブインがかわいいんだよな! 『おにのごとく ただしい! おにただ!』ってな。......いいゲームだったよ」
「そうね。ただのキャラゲーかと思わせておいて、実は当時のスペックからはなかなか考えにくいような擬似3D奥スクロールとか、技術的にもすごいのよね。にもかかわらず、子供心を刺激するようなあの独特の世界観! かわいいキャラ! 本当に、素晴らしい作品よ」
日南は少女のような純粋で楽しそうな笑顔を見せながら話す。そ、そんな顔もできるの。
「いやあ、本当にそうだな」と俺は目をそらしながら言う。
「さすがわかってるわね! ブインは私をゲームの世界に......っていうか」日南はハッと気づいたように俺から顔を逸 らし、コホンと咳払いする。「話、逸れすぎ」
好きなものの話ができて楽しかったからか、頬がほんのりと赤い。
「あ、ああ。そうだったな、えーと」
「どうすれば会話がうまくなるのか、って話でしょ?」
日南は憮然と話題を戻す。なんか不満げに腕を組んでいる。
「だな、まあブインについてはまた今度」
「そうね。話を戻しましょう。それで......わかる? 会話がうまくなる方法」
「うーん......まあ、うまい人の真似とかか?」
「おにただ」
「早速」
「その二つが大事だってことに気がついたら、あとはそれをうまい人がどうやってるかを見て、マネすればいいの。なにが大事かわかっているから、どこに注目すべきかわかるでしょ?」
「なるほど。たしかにそうだ」
「ちなみに、さっきから言ってる『空気』って、なにかはわかってる?」
「えーと? 『空気』とはなにか?」
......言われてみれば、なんとなく漠然と空気を握ってるなあとか、ヤバい空気だなあとか、そのくらいにしか考えていなくて、実際それってなんなんだと聞かれたらよくわからない。
「......いや、わからないな。なんだ?」
素直に聞こう。
「あのね。『空気』っていうのは『その場における善悪の基準』のことよ」
えーと、『その場における善悪の基準』?
「どういうことだ?」
「そうね、噛 み砕いて言うなら、どういうことをしたらいいとされて、どういうことをしたら悪いとされるかの基準ってことね。その集団の中だけでの、ね。ほら例えば、ノリがよければいいほど褒 められる集団もあれば、逆に大学生みたいなノリを毛嫌いしてダサいとする集団もあるじゃない? その良い悪いの基準が『空気』って呼ばれるものなのよ」
「あー......なるほど」
なんとなくだけどわかったような気もする。で、みみみはそれに左右されやすくて、たまちゃんはそれにまったく左右されない、ってのも結構うなずける。
「そういうふうに、他の場所では通用しない、ある集団の中でだけ成立している善悪の基準のことを『空気』って言うのよ」
ふむ。
「......なんとなくはわかるけど、いま聞いただけじゃ完全に理解しきれてない気がするな」
「大丈夫よ。これは細かい話だし、いまのレベルではそこまで重要じゃないわ。いつか役に立つ日が来るかも、くらいに覚えておけばいいわね。いまは漠然と『空気』と感じられているだけで十分よ」
「それでいいのか? ......わかった。そうするわ。けど、大事なことをまだ聞いてないぞ」
日南はニヤリと笑う。
「あら、それはなに?」
「うまい人の真似 だけじゃなかなかうまくならないんじゃないか? なんだろう、体がついていかないというか......やりたい動き自体が、基礎能力の差で真似できなかったりするだろ」
そう。うまい人の動きを真似しようとしても、そもそもできなかったりするのだ。少なくともゲームでは、そういうことが多い。操作技術の差で。
だから例えば会話でも、ここで新しい話題を出したいなとか、ここでいい感じのツッコミをしたいな、と思ったときにそれがすぐに出てこないなら、『操作技術の差』でうまい人の真 似ができないのだと思う。......まあ、こういうところはたしかに、『人生』もゲームだな。
「さすがね。そのとおり。スキルを鍛える必要があるわ」
「だよな? けどそれって、一朝一夕 で身につくもんじゃ......」
「ところがね、それが一番簡単なのよ」
「え? 簡単?」
「ええ、簡単よ」と愉快そうに右手の人差指を立てる日南。「暗記するだけ、ね」
「......暗記?」
「ええ。簡単でしょう?」
日南はいたずらっぽく笑う。からかわれている。
「ちゃんと説明しろ。どういうことだよ?」
「単純な話よ」
カバンから筆箱を取り出す日南。そしてその中から単語帳を取り出し、ペラペラとめくりはじめた。
「なんだ? それ」と言いながら俺は日南の手の中にある単語帳を覗き込み、そして驚いた。「......マジかお前、それ......」
その単語帳に書かれていたもの。それは例えば『二組の中島健太 郎の 弟の話』というカードの裏に『国立大の中等部なんて余裕と言いながら受験すらしなかった』と。『五月中旬に私がお母さんに言われたこと』というカードの裏 に『勉強はできるのに着ている洋服がバカっぽい』と。『ドラマ「ひみつのお父様」第三話で笑ったシーン』というカードの裏に『菅原 悠介が転ぶシーン、怪我 しないように気を使った転び方すぎてコントみたいだった』......などなど。それらがそこそこ分厚い束になってまとめられている。
「ね? 単純な話でしょ?」
ニッコリと笑っている。怖い。
「暗記......してんのか? 話題、を?」
「ええ」
般若のように張りついたニコニコ。
「いや、これはもうなんというか、頭おかしいだろ......」
「なに言ってるのよ。RPGの装備品の攻撃力防御力の数値を全部覚えたり、育成バトル型のゲームでそれぞれのモンスターの固有能力値を全部覚えたりするのと、一緒のことよ?」
日南がそう言いながらひらいて見せてきた大きな筆箱の中には、おそらくさっきのものと同様の用途と思われるたくさんの単語帳が、大量にぎっしりびっしりと入っていた。
「ひえぇ......」
「なに情けない声出してるのよ。こうすれば、話題なんてなくなりようがないでしょう?」
そうだけど......こんなん普通のやつが見たらドン引きだろ。
「......いや、でもすごいわ。たしかにこれをしとけば話題なんてなくならない......」
とまあ、納得はするが、
「で、これを俺にもやれ、って、ことだよな?」
少し身構えてしまう。
「あたりまえじゃない。ただ、やり方はなんでもいいわ。単語帳じゃなくてもね。別にあなたは勉強ができないわけじゃないわよね? それなら、自分がやりやすい勉強のやり方で、話題を暗記してもらえればそれでいいわ」
「わ、わかった」
「さて、会話に関する指導はとりあえずこんなところね」
「あ、待ってくれ、ちょっとわからないところが」
「なに?」
「話題の暗記はできるとして、ほら、俺って人に話しかけるとき毎回噛むだろ? それってどうすればいいんだ? あ、『すいません』の練習?」
「......それは慣れて」
俺の質問に日南は指でひたいを抑えながら、うんざりした声色で答えた。
「しかも、練習するにしても、同級生に話しかけるとき『すいません』じゃないでしょ......」
「あ、そ、そうだな」
日南は「まったく」とため息をつきながら単語帳を筆箱にしまい、その筆箱を鞄にしまった。
「ふう......なんか疲れたな、今日」
「そうね。今日はたくさん新しいことを話したし、あなたも自分の考えをたくさん喋 ったしね。けれど、今日お互いが話したことは大事なことが多いから、家に帰ったあと、それから土日の夜とかに、また復習しておいて」
「復習? 思い出すくらいでいいのか? ちゃんと覚えてる......とは思うけど不安もあるぞ」
「ええ、そうだと思って。はいこれ」
日南の胸ポケットから取り出されたのは手のひらサイズの細長い、再生ボタンと録音ボタンがある機械。
「......録音機?」
「いわゆるICレコーダーね。今日のここでの会話は、最初から全部録音してあるわ」
いつのまに。
「はは、用意周到な......え、てか、これわざわざ買ったのか?」
「もともと持ってたものよ。これ、いろいろと使えるからね。今回は一時的に貸すだけ」
いろいろと、って、なにに使っていたんだろうか......。単語帳の使い方とかから考えると、なんかこれも怖い使い方してそうで聞けない。日南は「はい」と言ってそれを手渡す。
「あ、ありがとう」
「フォルダ分けされていて、そのフォルダにはこの録音しか入っていないから、再生を押すだけで聞けるようになってるわ。ここに挿せばイヤホンも使えるわよ」
「わ、わかった」
こういう細かい気遣いもリア充を極めし者の技なのだろう。
「さて、それじゃあ明日することだけど」
「え? 明日? いや、明日って土曜日だぞ?」
うちの高校は土曜日は休みだ。
「ええ、だからこそよ。それともなにか予定でも入ってるの? あなたが?」
「いや......入ってないけど」悔しいながらな。「なんだ? 家で自主練か?」
「そうじゃないわ」
「ん?」
そして日南は当然のようにこう言った。
「昼の十一時に大宮駅に集合ね。私に一日付き合ってもらうわ」
デート!?......ではないと思うけど、ええ!?
そして当日。池袋とか新宿 まで行くのがめんどくさいときに妥協して訪れる都市として日本最大規模を誇る街、大宮に到着した俺。ちなみに大宮でことが済むのに池袋に行ったことが県にバレると、裏切り者として埼玉県のマスコット、コバトンに処刑される。
「ぜえ......ぜえ......待った?」
「ううん、いまきたとこ」
音声読み上げソフトでももっと抑揚つけるぞ、くらいの棒読みっぷりで怒りを表現される。
「すいませんでした!」
一分の遅刻。
「......まあどうせ、マシな服なんて一着も持ってないくせに、できるだけ恥ずかしくない格好をしようとか、そんなことで迷っていたんでしょ。くだらないわ」
「......よくわかったな」
ここまで正確無比に見抜かれると落ち込む気すら起きなくなる、ってレベルでの大正解。
「まあ、オフ会にあんな格好で来るような心根が、少しは進歩したってことかしらね」
「うるせえ」
そうじゃなくて『街で日南葵 の隣を歩く』ということはそれくらいとんでもないことなんだよ。わかってるのかこいつはその出来事の大きさを。一応俺なりの気遣いだから。
「さて、それじゃあ行くわよ」
「ちょっと待て。教えてくれよ、今日の目的をさ」
なにも知らされず集合とだけ言われたからな。
「そうね。......逆に、なんだと思う? リア充になるために、大宮に来る理由」
「え? クイズ?」
自分で考えてみろってか。なるほど。えーと。
考えながら、待ち合わせスポットである『まめの木』の前に立つ日南を見やる。
──しかし普通、こうしてただ立っているだけでこんなにもサマになるものだろうか。青くて長い薄手のコート? の下にワンピースみたいな上下一体っぽいTシャツ? みたいな服を着ていて、シンプルながら異様に似合っている。かわいいとも言えるし綺 麗とも言える佇 まいだ。これが素材がいいからなのかそれとも服装のセンスなのかなんてことは俺には到底わからない。とにかく、もし芸能人を生で見たらこうなんだろうなあ、みたいなオーラだけは感じ取れる。
とか考えながらぼんやり日南を眺めていると、斜め向かいで待ち合わせしている学生風の男二人が「あれって......日 南......?」「......ほんとだ......」みたいにこちらを見てヒソヒソ話しているのが聞こえてくる。え、もし芸能人を生で見たらとか思っ たけど、ひょっとしてこいつホントに......? いやこいつのオーバースペックからしたらありえなくはない話だぞ。
「......なあ日南、お前ってひょっとして芸能人?」
憮然と立っているオーラの塊にヒソヒソと尋ねる。
「なによ突然」
「いや、さっき斜め向かいのな......」と説明する。
「ああ。......まあ、芸能人ではないけど、有名人ではあるわね。特にここらへんの地域では」
「有名人? 芸能人じゃなくて、ってなにが違うんだ?」
「別に芸能活動はしてないけれど有名なのよ」
「なんだそれ?」
「まあ私、全国模試の上位の常連だし、去年、陸上でも全国にちょこっと出たりしたから......それにこのルックスも相まって、そこそこ名が知れてるの」
全国模試の上位だとか陸上で全国だとか、普通の人が満を持して何時間もかけてするレベルの自慢をサラリと一息で言われてしまい目眩がする思いだ。
「ちょっと待ってくれよ。お前、すごいとは思ってたけど、そこまでなのか?」
せいぜい校内では誰にも負けないとかそのくらいかと思ってた。全国区なのかよ。
「ずっと言ってるでしょ? どの分野でも負けない自信があるって」
それを鼻にかける様子はなく、もう、面倒くさいわね、みたいな口調であしらわれる。
「......一体どうやったらそこまで結果を残せるんだよ」
「別に。ただどの分野でも、誰よりもちょっとだけ多く考えて、誰よりもちょっとだけ長い時間、がんばったっていうだけ。そんなのいいから早く考えて」
いや、言葉にしたらシンプルだけどそれって......。
──俺は、俺が思っていたよりもとんでもないやつと行動を共にしているのかもしれない。
「ここにきた理由......人混みに......慣れるため?」
「あなたって......私が思ってるよりもずっと低い段階にいるのかもしれない......」
日南はあきれたようにこめかみを押さえた。
***
まず連れて行かれたのは書店だった。しかしなぜ書店なのだろう。
「なあ、ここでなにをするんだ?」
「勉強......というか、方向性を決めるのよ」
「方向性?」
日南はスタスタと雑誌コーナーへと向かい、ファッションのコーナーで足を止めた。
「あなたはもし素人にアタファミを教えることになったら、使うキャラクターを指定する?」
こいつが突然ゲームの話をするのにも慣れてきた。
「いや、しないな。まあさすがにそれじゃあかなり不利だぞ、ってキャラクターだったら止めはするけど。まあでも基本、そいつが好きで使いやすいキャラクターでやってもらうと思う。ある程度これは使いやすいぞ、とかは教えると思うけどな」
日南は頷いた。
「そうよね。じゃあ、それはどうして?」
「そりゃ、そのほうがやってて楽しいからだよ。やってて楽しくなかったらモチベーションが下がるし、結局長い目で見たら損だったりするんだよ」
「うん、そのとおりね。書店に来たのもそういうこと」
「......どういうことだ?」
日南は一冊のメンズファッション雑誌を手にとり、ひらいた。
「さ、あなたはどのファッションがかっこいいと思う? インスピレーションでいいわ」
そう言いながらパラパラとページをめくっている。
「どれがって言われてもな」
「今日はそれを参考に、服を買いに行くわ。さ、どう?」
「......あー、なるほど」
つまり、マイキャラを選ぶってわけだ。
「でも、俺が選んでいいのか? なんか、センスなかったりとか......」
「大丈夫よ。こんな雑誌に載ってるものは、たいがいどれを選んでもおしゃれだから。まあ、あなたには似合わないってものもあると思うから、それは私が止めるわ」
「なるほど」
しかしこうして見るとどれもこれもおしゃれだ。俺には全部ハードルが高いように見える。身の丈に合っていないというか。うーんと唸 りながら五分弱かけてまあ、これはそこそこ好みか? と思えるモデルのをなんとなく、本当にインスピレーション程度で指さす。
「わかんないけど、これとか?」
なにも自信がない。そして指さして気がついたけれど、ジャケット(44,800)とか書いてある。あーいやこれは手が出ませんわ。
「なるほど、これね。......うん、構わないわ」日南はそう言うと雑誌をとじ、スマホの地図アプリを起動した。「それじゃあ行くわよ」
「え? どこに?」
「決まってるじゃない。いまのコーディネートに使われてる服を売ってるショップよ」
そ、そんなお金ないぞ!
そうして到着したのは、俺が今まで存在したことのある空間の中で最もおしゃれな空間だった。服屋ってこんな感じなんだ......。道中でほら、と指示され、半ば恐 喝されたくらいの心境でATMからお金をおろした。しかし俺のなけなしの全財産は、さっきのジャケットを買ったらほぼ全額なくなるような心許ないものであった。
「あのさあ日南、俺、お金ないからさ、高い服買う余裕なんてとても」
「大丈夫よ」
日南は俺にジャケットを手渡す。
「いやだから四万なんてとても出せな......あれ?」
視線の先の値札に書かれていた数字は(9,720)だった。
「え......いやお前、さっきのコーディネートに使われてる店に行くって」
「ええ、そう言ったわね」
「じゃ、じゃあなんで......同じ店でもこんなに値段の幅があるのか?」
「違うわよ。さっきのコーディネートの、ジャケットの下に着ているシャツのブランドよ」
「......あー、そういうこと」
ジャケットのブランドのお店に行くわよとは言ってないわよ、ってことね。んなひっかけ問題みたいなことを。
「ファッション雑誌にはだいたい、使われている服のブランド名と値段が書いてあるわ。自分がおしゃれだと思ったコーディネートを見つけたら、その値段の部分を見るの。それで、あ、これなら手が出るな、って値段のブランドを探して、そこに行けばいいのよ」
そして、もし高いブランドだらけだったらまた別のコーディネートを探して、という風にしていけばいずれ見つかるのだという。
「そうすれば、だいたい間違いないわ。今回あなたが選んだコーディネートでこのブランドが使われていたのはシャツ一枚だけだったけど、雑誌 に載っているようなコーディネートは、シャツ一枚だとしても、ちゃんと全体に合うようなブランドが使われているわ。だから、他の服もまあ、好みに合うと 思っていいわ」
単純明快だ。
「......なるほど、これなら俺でもできそうだな」
「へえ、いいじゃない。自分一人でもやろうと思うほどやる気になってきたのね」
「だから言ってるだろ、俺はゲームに対しては手を抜かないんだよ」
「そうだったわね」
日南はご機嫌な様子だ。
「......で、肝心なことをまだ教わってないんだけど」
「選び方、かしら?」
「そうだよ。こんだけあったらどれがいいかわからん。どうやって選べばいいんだよ?」
「あら、それが一番簡単よ」
「簡単? いやいや、服なんてさ、センスと経験をフルに活用して選ぶもんじゃないのか? そんな簡単な攻略法があるとは思えないんだけど......」
「もちろんそうよ。センスと経験をフルに活用しないと、おしゃれな服を見分けるのは難しいわ。ファッションっていうのは、そんな一朝 一夕で習得できるものじゃないわね」
「......じゃあ」
「これ、なにかわかる?」
俺の言葉を遮った日南は、斜め上方向を指さしながらそう言った。
その方向には、Tシャツと上着とズボンを着用しているいわゆる......。
「マネキン、だけど」
「もうわかるでしょ?」
マネキンをさしていた指をそのまま俺にビシッと向けて、そしてこう続けた。
「これを全部セットで買うのよ」
──聞いてみれば単純、裏ワザみたいなもので、たしかにこうすればまあ間違いはないなというような作戦だった。
「このマネキンのコーディネート、誰が考えていると思う?」
「このお店の、店員、だよな」
「ええ。洋服屋さんの店員って、そこら辺の普通の人より、そりゃあおしゃれなことが多いわよね? むしろ、ある程度自分に自信がないとなれない」
「まあ、そうだな。俺だったら服屋の店員になろうなんてとてもとても」
「マネキンのコーディネートっていうのはね。そんな服に自信のある店員さんが、お店の服を売るために、お店の中にディスプレイする『広告』として、しっかり考えたものなのよ」
「......なるほど」
「しかもたぶん、何人かで話しあったりもしてるでしょうね。おしゃれな店員が数人でわざわざよ? どう考えても、間違いないと思わない?」
「まあ......だな」
納得させられた。
「わかった? ファッション、おしゃれっていうのは、センスと経験をフルに活用しないとなかなか難しいって言ったわよね?」
「ああ」
「だったら、おしゃれな人がセンスと経験をフルに活用した結果を、そのまま拝借しちゃえばいい。それだけよ」
「......なるほどねえ」
たしかにアタファミでも、上達の早道はなによりもまずパクることだ。うまい人の真似。
「あとはそれをそのままのコーディネートで着ればいいだけ。何回もこういうふうに買っていけば、だんだんと感覚がつかめてきて、マネキン買いをしなくてもできるようになるわ」
「わかった。......あ、一つ聞いていいか?」
「なによ?」
「マネキン買いってことは、これマネキンごとついてくるのか?」
「......馬鹿?」
否定でも肯定でもない『罵倒』という答えで、俺は自分が間違えたことを察した。
そうして店内にマネキンは三つあったので、その中から好きなものを選ぶよう促され、インスピレーションで一つを選ぶ運びとなった。
「......それじゃあ、試着してきて」なんてことをあっさり言いやがる。
「ええ!? 試着!?」
待って無理無理無理! これ着てもいいですか? ってこんなおしゃれ空間に生息してるおしゃれ人間に話しかけに行くんだろ!? んなの無理に決まってるだろ!
「なにびっくりしてるのよ。自意識過剰。相手はなにも気にしないからさっさと試着して」
「てか待てよ! マネキンで買えば間違いないんだろ!? じゃあ試着する必要ないだろ!」
「コーディネートはそうね。でもサイズの問題があるから。まあ、あなたの体型ならMサイズを選べば間違いないでしょうけど、一応ね。今後の参考」
「いや......でも、うう......」
サイズがどうとか言われたらもう俺にはわからない世界なので反論できない。
「ほら」
「お、俺が言うのか?」
「あたりまえじゃない。今後あなた一人で服を買うときにも一応試着はしてもらうのよ? ここで練習しておく意味でもあなたが自分で言って」
「こ、今後もするのか......試着」
「ええ」
もう問答は無用というような突き放した口調だ。やるしかないのか......。
「......な、な、なんて言えばいいんだ......?」
声が震えている俺。なんじゃこりゃ。客観的に完璧にダサい。
「あのマネキン一式買いたいんですけど、試着できます? とか、なんでもいいわよ」
「え? えーと、あのマネキン一式買いたいんですけど......なんて?」
「買いたいんですけど、試着できます?」
「あのマネキン一式買いたいんですけど、試着できます? ......おっけー?」
「ええ」
介護とかリハビリとかそういう言葉を思い出すレベルの世話の焼かれ具合で申し訳なくなる。
「......あのマネキン一式買いたいんですけど、試着できます......よし」
覚悟を決め、店員に話しかけに行く。わ、若い女性だ。ポニーテールでうなじが綺麗。ひい。
「あの! すびません!」
よし、ここまでは好調。
「はーい」
「えーと、あの、あのー」と言いながらさっき選んだマネキンを指さす。
「あちらですか?」
「はい。あの......あのマネキンください!」
ほらみたことか。マネキンが欲しいみたいになった。最悪だろ。しかし。
「......えーと、マネキンの洋服をセットで、ですね? 試着はなさいますか?」
「お、お願いします!」
店員さんのふところの広さにより、予定とは違ったがうまくいった。
そんな感じで紆余曲折 を経て、試着した結果日南のお墨付 きも得て、三万程度の出費と引き換えに上下一式のおしゃれ洋服を手に入れたのだった。
「ねえねえ! これいま着てっちゃおうよ!」
会計を終えると、耳のすぐ近くで明るいトーンの声が聞こえた。誰だ? と思ったけれどそうだ、猫をかぶったときの日南の声だった。
「お客様、着ていきます?」
「ね!」
完全無欠の笑顔がこちらを向いている。こんなの『着てけ』という意味でしかない。
「......あ、じゃお願いします」
それではこちらに、と試着室に案内され、着替えることになった。もともと着ていた服は、店員さんがたたんで袋に入れてくれた。試着室を出たら「お似合いですよ~」とか言われてちょっと照れた。
素晴らしいサービスだなあと感心していると、その店員さんはすれ違いざま、日南に聞こえないように耳元で「彼女さんめちゃくちゃかわいいし素敵ですね。大事にしたほうがいいですよ」と、ニッコリ小悪魔みたいな感じの笑顔と声で囁 いてきた。
「いや、そういうのじゃないです!」と慌てて否定すると「あ、やっぱそうですよね」と言われた。やっぱとかおい。そりゃそうだけどおい。
そして。
「さて、美容院の予約まで少し時間があるわね」
「......すでに予約もしてあんのね」
もうこいつの徹底された計画性にもあまり驚かなくなってきた。
「ええ、それじゃあ、時間をつぶす意味でも......ご飯、食べに行きましょうか」
ドキッ。となるべきシーンなのかもしれないけれどなんか違うんだよなあもう。
「ああ、いいぞ、俺もちょうど腹減ってきたし。どっか適当にファミレスでも行くか? それかせっかく大宮 来たんだしなんか大宮らしいもん食べるか? でも大宮らしいもんなんてないんだよな。さきたまライスボールとかあればいいんだけどな。はは」
俺がジョークを飛ばしていると、なぜか日南が軽蔑に近い眼 差 しを向けてきた。ちなみにさきたまライスボールってのは米粉を使った埼玉名産のパン。日本では米、東南アジアの一部ではタロイモが主食なように、埼玉ではさきたまライスボールが主食として親しまれている。
「あなたね。こうして女性と、しかもあの日南葵と一緒にご飯を食べるっていうのよ? そんなムードもなにもない、適当なファミレスなんかでいいと思ってるの?」
「いやいや、もうそういう感じじゃないだろ、俺とお前は」
「いいから。この辺にね。ハンバーグ屋さんがあるのよ」
「へえ。行ったことあるのか?」
「ないわ」
「ふーん。で、なんだ? そこでなんかハンバーグ屋ならではの特訓でもあるのか?」
「別にないけど」
「あれ? そうなのか? じゃあなんでハンバーグ屋さん?」
「食べたいだけよ」
「え? それだけ?」
「......そうよ」
「ハンバーグ食べたいだけ? 日南葵が?」
「......なに? 悪い?」
「いや、悪くはないけど......」なんかまたトレーニングメニューが用意されているからその店を選んだのかと思った。「お前、ハンバーグ好きなんだな」
「うるさいわね! 何回言うのよ......友達の間で評判がいいの。さっさと行くわよ」
そう言っててくてく歩いていってしまう。へえ。食べたいから行く、ね。こいつにもそういうところがあるんだな。ふーん意外。
そうして日南に連れていかれたハンバーグ屋は、森の隠れ家的お店、みたいなキャッチコピーが似合いそうな小さくてかわいらしい店だった。店頭にテーブルが一つあり、パラソルの下に木製の丸いテーブル、そのそばに切り株を模した椅 子二つが置いてある。まさに絵本の世界というにふさわしい外観だった。
俺と日南はその店頭の席を横切って中に入り、二人がけのテーブルに腰掛けた。俺はメニューをざっと見てまあこれかな、とサクサクと頼むものを決め、日南が決めるのを待った。しかしそれから三分くらい待っても、日南は真剣な面 持ちで、黙々とメニューと向き合っている。
「......どれにしようかしら」
「ずいぶん迷うな?」
「決まったって顔ね? ......どれにしたのよ?」
珍しく日南が遠慮気味な口調。「あなたがなにを頼むかなんて興味もないわ。私は私が食べたいものを選ぶだけ」ぐらいの考えを持っていそうなこいつだからちょっと意外だ。
「ん。この、トマトチーズハンバーグ」
「そうよね。そう、それもいいのよ。たしかにそうなのよね......」
指の腹を唇に添えながら、犯行の証拠を探しているってくらいの深刻さで唸っている。
「ひ、日南......?」
「ねえ、友崎文也 くん。一つ提案があるのだけれど」
「ん?」
珍しくフルネームで呼ばれて少し戸惑う。すごく真面目な表情だ。
「いい? 私はこの和風ソースチーズinハンバーグを頼むわ。だから......」
「うん」
「それを、あなたのトマトチーズハンバーグと半分ずつにする、というのはどう?」
そんなことをものすごく重大なことのように、不明だった凶器が判明しましたくらいの重々しさで言う日南。おもわずプッと吹き出してしまった。
「......なにを笑っているの? 不愉快」
「ああ、すまん」とか言いながらもまだ半笑いになってしまう。
「トマトチーズハンバーグも食べたい、和風ソースチーズinハンバーグも食べたい。そんな状況において合理的な提案をしたにすぎないのだけど? 笑われるようなことはしてないわ」
「そ、そうだよな。しよう、半分こ、しよう」そして俺は前に行ったパスタ屋で日南が食っていたものを思い出した──カルボナーラだ。「お前、チーズ好きだな」
「うるさいわね! 別にいいでしょなにが好きでも! じゃあそれを半分ずつで決定でいいわね? ......いつまで笑ってるのよ。本当に不愉快。早く注文して」
これ以上はさすがに失礼なので気合いで笑いを抑え、言われたとおり注文をする。
運ばれてきた水を飲みながらハンバーグの到着を待つ。
「そういえば、ICレコーダーは聞いた?」
昨日日南に渡された、放課後反省会の音声が入ったICレコーダーだ。復習用に手渡されたので一応、昨日寝る前にひと通り聞いた。
「ああ、聞いたよ」
「どうだった? なにか気がついたことは?」
「気がついたこと?」
とは言うものの、その日放課後に話したことをその日の夜に聞いたわけだから、内容もほぼ完全に覚えていたし、気がついたことと言われても......。
「そうね、聞き方が悪かったかもしれないわ。『内容以外で』気になったことはなかった?」
「内容以外で......? ......あっ」
「あったわよね?」
「......声」
そう、あった。喋っていた内容はほとんど記憶のとおりだった。ただ、自分のイメージと違うことが一つだけあったのだ。
「俺の、声、というか、喋り方? 思ってたのと全然......」
「そうよね」
待ち構えていたかのような口調。
「ああ。自分の声が自分のイメージと違うっていうのはよく言うけどさ、あんなに自然な会話を長時間聞いたのは初めてだったから......ちょっと驚いた。ぼそぼそ喋りすぎだろ俺」
「......うん、自分で聞いて一発でそれに気づけるのね。それなら治るわ」
「そうなのか?」
「ええ。これはオンチにでもなんでも言えることだけど、自分の発している音がおかしいことに気がつけるなら、それは反復練習で治せるのよ。ある程度まではね」
「なるほど」
そんなの聞いたことがある気がする。それがわからないのが本当のオンチだと。
「......けどあなたは特にぼそぼそね。矯正するトレーニングがあったほうがいいわ」
「俺、特にぼそぼそなのか」
「ええ。あなたの喋り方がぼそぼそに聞こえるのはね、言葉に頼りすぎているからなのよ」
「言葉に頼りすぎている?」
「例えばあなた、私がなにかについて説明するとき、『なるほど』って言ったり『そうなのか?』って言ったり、言葉に色々パターンを付けるでしょ?」
「え、そうか?」
「そうなのよ。おそらく無意識でね。まあ、同じことばかり言うのは失礼とか、そういう意識が働いてるんだと思うけど......要は、言葉を変えて、トーンは同じなの」
「トーンは同じ?」
「ええ。つまり表情とか、抑揚とかジェスチャーとか、そういうものを会話であまり使っていないのよ。ずっと同じ抑揚、声色」
「あー」
それはそうかもしれない。
「だからそうね、じゃあこの昼食のあいだ、一つ課題を出すわ」
「課題?」
「ええ。その課題っていうのはね」
「ああ」
「──これから私の話に対する相槌は『あいうえお』以外使ってはいけない、よ」
「相槌に『あいうえお』以外使わない?」
それがどうしてトーンの訓練になるんだ?
「わかってないみたいね。いい? あいうえおしか使わないってことは、『ああ』とか『おう』とか『え?』とかそういうことしか言えなくなるのよ」
「まあ、そうだな......あ、今はまだいいのか?」
「今はいいわ。それでね。そうやって言葉が制限されたらどうなるかわかる? その状態で相手に自分の思いを伝えようと思ったら普通、どうなる?」
「......あー、なるほど」
「表情やイントネーション、声の大きさや体の動きで感情を表現せざるをえないでしょ?」
「......たしかにな」
「つまりね」
と言った日南は、まず怖い口調で眉をひそめて「あ?」と言った。
次に、発見した、みたいな口調で目を丸くして「あっ」と言った。
その次に、なるほど~みたいなちょっとマヌケな顔をして「あ~」と言った。
最後に、声を荒らげて、両手で頭を抱えて「あー!」と言った。
「......と、見たとおり『あ』だけでもいろんな表現がある。いまみたいに抑揚やジェスチャー、表情や声の大きさで気持ちを伝える癖をつければ、ぼそぼそとした喋 り方は解消されるわ」
「......器用なもんだな」
まずそのやたら高い演技力に目がいった。あと華やかさというか、いちいちかわいかった。
「こういうふうに、言葉を縛ってしまえばそれ以外で気持ちを表現せざるをえないから、自然と上達していくわ。逆に言えばいままでのあなたは、いろんな言葉が出てくるせいで、言葉以外の表現が退化してしまっていた、とも言えるわね」
「......まあ、大体はわかった」
「はい。それじゃあいまから開始。自分が話すときは大丈夫よ。あくまで相槌だけね」
とりあえず、始まりっぽい相槌をあいうえおで......。
「おう!」と拳を顔の横で握りながら勢いよく。
「一発目から威勢がいいわね。意外とスジがいいのかしら?」
褒められた......なら。
「......いえーい!」バンザイしながら。いろいろ考えた結果これくらいしか出てこなかった。
「いいわね。馬鹿みたいで。最初は恥ずかしがって小さい動きしかできないと思っていたわ」
ディスられた。この「ふざけんな!」という思いを表面に出すためには......。
「ああ?」眉をひそめて不服そうに言う。
「水を得た魚ね。少し腹が立ってきたわ。けれどどう? いいトレーニングでしょうこれ? お礼にこのお店の料金、おごってもらえる?」
この「いやいやいや待て待て!」という気持ちを表現するには......。
「おい!!」手を前に突き出してツッコミのように、言ったその直後。
「お待たせしました。こちら和風ソースチーズinハンバーグ......ってあれ? 友崎、くん?」
店員さんに不意打ちで名前を呼ばれた。
「え!?」とさっきまでの勢いのままに返答する俺。ハンバーグを運んできた女性の顔に目を向けると、そこにいたのは絵本と少女漫画を足して二で割って光を足したような女性、つまりクラスメイトの菊 池風香 さんであった。見つめあったまま洟をかんだ仲だ。いつもはかけていない眼鏡 をかけている。似合いすぎ。
「うお!?」さっきまでの要領でつい、あいうえおで返事をしてしまう。
「あれ? 風香ちゃん!? えー! ここでバイトしてたんだ! 偶然!」
もう一人クラスメイトが来たのか!? と思ったら日南だった。豹変がすごい。
「ええ、そうなんです。......一週間くらい前から、ここ、評判、よかったので......」
「最近ホント学校で話題だもんね! 私もね、一回食べてみたくて、今日初めて来たの」
「そうそう!」さっきまでの大げさな身振り手振りの余韻が残ったまま俺はそう言う。
「あ......そうなんですね......。でも、どうして......?」
「え? どうしてって?」
日南が、おそらくわかった上でだとは思うが、それをほぼ表面に出さず言う。菊池 さんは彼女にだけは妖精が見えているんじゃないかみたいな不思議な瞳 で、俺と日南を交互に見た。
「......二人、仲良かったんですね......。なんか、意外......」
「そうそう! 最近家庭科の授業のとき仲良くなったんだよね」と日南は即答。嘘うまいな。
「......ああ、あのとき」
菊池さんはふふ、と笑い、眼鏡の奥の長いまつげがふわりと魔性に揺れた。
「あ、ごめんね、それ私の!」
菊池さんが持ったままのハンバーグを指さしながら日南が言う。
「あ、そうですね、はい......。それじゃあ、ごゆっくり......どうぞ」
そう言って上品に笑う菊池さんは、この森のようなお店の雰囲気 にすごくマッチしていた。
「......行ったか」
「ええ」
「なんというか......バレてないよな? いろいろと」
日南は一瞬だけ黙り込んで。
「まあ大丈夫でしょうね。もし私の口調を一瞬だけ聞かれていたとしても、なにかのごっこ遊びだとしか思われないでしょうし、長いこと会話を聞かれるほど私は油断していないわ。学校で評判なのだから、お客さんにクラスメイトがいる可能性も考えていたもの」
「あ、そうか」まったく考えてなかった。貫禄のコミュ障。
「けれど、店員にいたのには少しびっくりしたわね。警戒の中に入れてなかったから反応が遅れたわ。眼鏡もかけていたし......でももうわかったから大丈夫よ。ドジをすることはないわ」
......こいつがそう言うならそうなんだろう。
「けど、やりづらくなったわね。まあ、ただのクラスメイトだったらさっきの相槌 の訓練を続けてもいいんだけど......。菊池風香となると話が変わってくるわね......」
「......どういうことだ? ただのクラスメイトだったらって?」
菊池さんはなにか特別なクラスメイトなのか?
「ええ、このあいだの実践で、もしやとは思っていたけど──今日のリアクションで確信したわ」
「確信したって、なにを?」
俺がそう尋ねると、日南は不敵な笑みとともにこう言った。
「菊池風香。あの子があなたの最初の『攻略ヒロイン』よ」
***
ほどなくしてトマトチーズハンバーグを運んできた菊池さんの顔を直視できなかったのは当然として、それ以前に俺は混乱していた。
「ちょ、ちょちょっと待てよ! それはつまりど、どういうことだよ」
「その動揺っぷりを見る限り、あなたが考えているとおりで正解だと思うわ」
日南はマグカップを傾けながら優雅に言う。
「つ、つつつまり、菊池さんとつ、つつつ付き合えるように、という......!」
俺は感情が高ぶっているが大きい声を出すわけにはいかないので、妙な勢いで喋っている。
「そのとおりよ。中くらいの目標、高校二年の間に彼女をつくる。その対象があの子よ?」
わざとらしいほど淡々と喋る日南。明らかに動揺している俺をからかっている。
しかし俺は、なにから聞けばいいのか、なにを喋ればいいのかわからないからとりあえず「な、なな、なんで?」としどろもどろに理由を尋ねる。
「まあ、色々理由はあるけど」
言いながらハンバーグを口に含みゆっくり咀嚼し、飲み込む。明らかにわざと焦 らしている。
「一番の理由は、話しかけた四人の中で、一番脈がありそうだったからよ」
「脈?」
菊池さんが? 俺に?
「半分」
突然の言葉に「え?」と戸惑う俺。
「ほら、ハンバーグ」
「あ、ああ」
話をなかなか進めてくれない。そこまでして焦らすかこいつ。それともすごくハンバーグ食いたいのか。とりあえずハンバーグを半分ずつ交換する。
「どういう理由かはわからないけど、ほら、優鈴に話しかけたときあったわよね? そのときから片 鱗はあったのよ」そう言って俺の鼻を指さす。「優鈴が風香 ちゃんに『ティッシュ持ってる?』って聞いたとき、やたらレスポンスが早かったわよね?」
「ああ、そういえば......そうだったな。......けど、それが?」
「あのときね、あなたが優鈴にティッシュ持ってる? って聞いた時点でもう、風香ちゃんはティッシュを捜してたのよ。それを横で聞いてただけなのにね」
「へえ......」それは気がつかなかった、けど。「......え、それだけ?」
「違うわ。それはあくまで片鱗。まあ、ちょっと不自然だなあとは思ったけど、誰 にも優しい女の子かもしれないし、あなたへの好意であるとは限らないわ。ただ、特別嫌われてはいない、ってことがわかるくらいかしら」
「そうだよな。じゃあ、なんで?」
「それはね」と言いながら自分のチーズinハンバーグを指さす日南。「これを持ってきたときにあの子、私たちに気がついたわよね? そのとき、なんて言っていたか覚えてる?」
「え......? そんな大切なこと言ってたか?」
「ええ。あの子はね。──『あれ? 友崎くん?』って言ったのよ」
日南はまた俺を指さし、満を持してみたいな感じでそう言った。
「......え? だからなんだよ? そりゃあ、クラスメイトがいたら名前ぐらい呼ぶだろ?」
日南はため息をつき、そして、胸に手を当てた。
「あの『日南葵』もいるのに?」
「......あー。なるほどね」
納得はした。納得はしたけれどこいつの前提としての自信に改めて感心する。
「うちの学校にとって、私はかなりのスター的存在よ。それも、親しみやすいタイプのね。だから普通なら、偶然見つけた集団の中に私がいた ら、まず間違いなく私の名前を呼ぶわ。けれど彼女は、まず最初に『友崎くん?』と言ったのよ。これは、大したことなさそうで、かなり決定的な事件よ」
日南は至極真面目な顔だ。こいつの自信家っぷりに慣れてきた自分が怖い。
「いや、そこまでか?」
「そこまでよ。いいかしら、考えてもみなさい? もしもこれが私ほどの大スターじゃなかったとしてもよ。男子と女子が一人ずついたとき、自分が女子だったらどう考えても最初に名前を呼びやすいのは女子でしょう? そこで男子のほうの名前を呼ぶのってどう?」
「それは......たしかにな」
「なのにあなたの名前を呼ぶっていうのはね、普通なようで実はけっこう不自然なことなのよ。もちろん、あなたの存在にしか気がつかなかっ た、とかならば話は別だけど、私ほどの存在感に気がつかないなんてこと、まずありえないわ。だからこれはね、ある程度脈があるか、それとも風香 ちゃんがよっぽどその辺りの感覚が普通じゃないか、のどちらかなのよ」
そう言いながら日南はハンバーグを完食。
「気がつかなかったって可能性をそんなことでなしにしていいのか?」
俺の言葉を無視して日南は続ける。
「けど私の知るかぎりあの子は普通の女の子だから......ってことはたぶん脈ありなのよね......。ねえ、あなたなにか身に覚えない?」
「身に覚え?」色々と思い出そうとしてみるけど。「いや、まったく」
「......そう」困ったような顔をして。「じゃあ、やっぱり勘違いなのかしら......?」
日南は珍しく自信なさげな口調だ。
「でも、もしホントに勘違いだとしたら、やっぱり攻略ヒロインって話はなしにしたほうがいいんじゃないか?」
「それは違うわ」ピシャリ。「どっちにしろ、いまのあなたにはあの子が最適よ。勘違いだとしても、攻略メインヒロインはあの子」
「け、けど、そもそも俺があの子のこと好きかどうかだって」
そもそも俺はそこに抵抗があった。
「......かわいいと思わない?」
「え?」
日南は突然、急角度からの質問を飛ばしてきた。
「風香ちゃん。私はとてもかわいいと思うんだけど、あなたはどう思う?」
「......いや、そりゃあ......かわいいとは思うけど」
「そうね。じゃあそれでいいじゃない。まだ好きかはわからない。けどかわいいからちょっと気になる。だからちょっとアタックしてみる。そこから、自分が本当に好きになるかどうかを確かめる。......なにかおかしいことがある?」
「いや、まあそういう言い方をすればそれは......」
「いちいち気にするレベルの話じゃないわよ、こんなこと」
いやこんなことって。これってそんな些細 なことか? 俺は悩む。不誠実さへの思いや、そもそもアタックすることへの恐怖。そしてゲーマーとしての意地。それらが交錯する。そして。
「......俺はこのゲームを、本気でプレイしてみるって決めたんだ。やるよ」
そう言い放った。一度は決めた決意だ。思うところも、とりあえずやってみてから考えればいい。いきなり手遅れになるなんてことはないはずだ。......たぶん。
「そう。さすがね」と言いながらメニューを手に取る日南。
「なんか食うのか? デザート?」
「ええ、あなたもなにか食べる? ここ、ケーキも美味しいらしいのよ」
「へえ」メニューにざっと目を走らせる。「じゃあ俺ティラミス」
「私はチ......」とまで言いかけて顔を赤くして言葉を止める日南。
「チ?」
俺が聞き返すと、日南はめちゃくちゃ平静な表情になっていた。不自然なくらいだった。というか明らかに作っていた。そしてそのまま、表情と同様に不自然なくらい平静な口調で、こう言った。
「私はチーズケーキ」
俺はまた吹き出してしまったので机の下で足を蹴られた。
次に向かった美容院では、特に事件は起こらず平穏に進んだ。「無難な感じでおまかせで」とだけ言ってあとはぜんぶ任せるように指示された俺は、そのとおりにミッションをこなした。あと、眉 カッ トをお願いしろとも言われたんだった。それもお願いする。服屋であんな目にあったあとなので、もう色々と開き直って勢いで出来た。全部込みで4800円 だったのでいつもよりも3800円高い。鏡を見ると、ブサイクの頭にいつもよりおしゃれな毛がのっている、という印象になっていた。やったぜ。悲しい。
こうしてこの土曜日で、洋服の選び方、髪型と眉の注文方法、喋り方のトーンの練習法を学び、夕方頃に解散となったのだった。
そして帰宅後、ついに初めて、この『ゲーム』が小さく動くこととなったのだ。
「ただいま~」
いつもよりぐったりと疲れた俺は靴 を脱ぎ散らかしながら居間になだれ込む。親はおらず、妹はあれがホットパンツというのだろうか、アホみたいに太もも丸出しな格好をしたままソファーで溶けていた。
「......お前、だらしなさすぎ」
そう率直に指摘してやる。すると妹はこちらを見ずに、
「はあ!? お兄ちゃんにだけは言われたくないんだけど! そんな変なかっこ......」と言いながらこちらに振り返る妹。「......え?」
そして明らかに困惑の、なにか信じられないものを目撃した、というような丸い目になった。俺の頭から足元までをなめるように見る妹。
「......お兄ちゃん......あのさあ......」
こ、これは!
***
「日南! 日南!」
翌週の月曜日の朝。第二被服室に先に到着していた日南に勢いよく駆け寄る俺。
「......やめてもらえる? 気持ち悪い犬みたいだわ」
「いやいや気持ち悪いはそのたとえにいらない主観だろ!」
「なによ、朝から元気よくツッコんで」
俺は堂々と言い放つ。
「最初の『小さい目標』、クリアしたかもしれないんだよ!」
すると、日南は目の色を変えた。
「え、本当!? 家族かしら? なにか言われたのね?」
その目は明らかにキラキラしている。なんかそれが俺も嬉しい。
「そうなんだよ妹だ! 聞いてくれよ! これでクリアになるかどうか!」
「ええ、いいわよ。勘違いじゃないでしょうね?」
「ああ! たぶんな!」
「で、なんて言われたのよ?」
「それはな......」
ドラムロールでも欲しい気分だ。
「『......お兄ちゃん......あのさあ......。......それ、お兄ちゃんのセンスだけじゃとてもありえない変化だよね? ......なに? 色気づいて脱オタの本でも読んだ?』だ!」
日南は、困惑のような苦笑のような、なんとも言えない表情を浮かべた。
「......うん、目標はクリアでいいけれど......。よくその言葉でそこまで喜べるわね?」
「うるせえ! クリアはクリアだ!」
「まあ、いいわ。初めての目標達成おめでとう。偉いわ」
「あ、ありがとう」戸惑いながら言う俺。
「──もしかしたらあなたは自分ではなにもしていない、というふうに思っているかもしれないけど、そんなことはないわ。たしかに服装はマネ キンのままだし、髪も切ってもらっただけ。だけど、それをしようと思って私についてきたその行動と意志、そして表情や姿勢のために毎日おこなっている努力 も、少なからず効果を発揮しているわ。あなただけの力ではないけど、でも絶対にこれは、あなたが、自分で、自分の手で、掴みとった結果よ」
俺の心の奥にあったほんの少しの違和感みたいなものをスラスラと言語化しながら俺の目を真っ直ぐに見据える日南。
「だから、もう一度言うわ。──おめでとう」
「......おう、ありがとう」
そんなことをされたから、二回目のありがとうは、さっきよりももう少し心の底から言うことができた。そうか、俺は一つ、人生というゲームで、目標を達成したのか。
「さて」と俺の余韻を無視してサクサクと話しだす日南。「次の小さい目標を発表するわ」
「おい早速だな」
「そりゃそうよ。結果を掴み取るためには日進月歩よ。着実に進んでいくしかないの」
「まあ、それはわかるけどさあ」
「それじゃあ発表するわね。次の目標も、とてもシンプルよ」
ごくり、と生唾を飲み込む暇すらなく。
「『私以外の学校の女子と、二人っきりでどこかに出かけること』よ」
「ちょっと待て!」
俺は反射的に手を伸ばし制止していた。
「......なによ? また非モテ非リア丸出しの見当外れな文句を言うつもり?」
「ちげえよ! だっておかしいだろうその目標は!」
「なにがよ?」
「だってお前二人で出かけるってそんなのもう、ほぼ付き合ってるようなもんじゃねえか!」
俺が自信満々に正論を叫ぶと、なぜか日南は心の底から呆れたような、いやむしろそれを通り越してもう慈愛ですらあるような表情をした。
「はあ......。ねえ、あなたが恋愛をしたことがないのはもう前提として、あなたは恋愛ドラマや漫画すら見たことがないの?」
「......いや、あるはあるけど」
「じゃあわかるでしょ? 二人で出かけるイコール付き合ってるなんていまやもう、中学生でも言わないわよ?」
「......そ、そうなのか?」そう言われると不安になる。
「そうよ。まあたしかに、付き合うほど相性がいいかを確かめるために、みたいな、付き合うことをなんとなく視野に入れている場合が多いでしょうけど」
「そ、それじゃあ...!」垂れ下がってきた蜘蛛の糸にすがる俺。
「まだこれ以上話す?」
ものすごく悲しい目で見られ、俺はみるみる小さくなっていく。
「お、おう......まあ、そういう......ものなん......だな?」
「ええ。とにかくその目標に向かって邁進してもらうわ。さあ、準備はいい? 今日あなたにやってもらうことはね」
そして日南は当然のようにこう続けた。
「泉優鈴に二回以上話しかけること、よ」
「ちょっと待て!」
今度こそ俺は完全にしっぽを捕まえたぞ! という確信を持って日南を制止した。
「いちいち止めないでもらえる?」
「じゃなくて! 今度は確実におかしいだろ! お前昨日、攻略ヒロインは菊池風 香だって言ったよな? じゃあ話しかけるのは泉優鈴じゃなくて菊池風香だろ!」と勢いよく指摘して、そして虚 しくなった。「......ていうかまあ、これはただの言い間違えなんだろうけどさ」
ちょっとした言い間違えで鬼の首を取ったように騒いでしまった自分が恥ずかしい、普段斬 られてる仕返しのつもりだったのかもな俺......とか思っていたら予想外の言葉が返ってきた。
「なに言ってるのよ。話しかけるのは菊池風香じゃなくて、泉優鈴で合ってるわよ?」
「は? ......いや、意地を張るなよ、言い間違えだろ?」
「......あなたね、私は日南葵よ? 私が『言い間違え』なんてすると思う?」
「いや、お前は言い間違えすらしないのか?」
「いい? たしかに攻略ヒロインは菊池風香 よ。でもね。現実っていうゲームの恋愛のシステムは、普通の恋愛シミュレーションとは違うのよ」
「......どういうことだよ?」
日南はそれはね、と前置きして。
「恋愛シミュレーションでは、一人攻略するヒロインを決めたら、あとはその子の好感度を上げるような選択肢を、ただ愚直に選び続けていればそれで攻略完了よ」
「ああ、そうだな」
「けど、現実はそうもいかないのよ。そんな決められたルートはないの」
「そりゃあそうだろうけど、でもそれでなんで泉優鈴に?」
「例えばシューティングゲームでね」また始まった。「残機がもうない状態と、残機に余裕がある状態......どちらのほうがスムーズに動けるかしら?」
「え?」一瞬迷って。「まあ、性格にもよると思うけど......残機がなかったら緊張して、いつもどおりの動きができなくなる、って人のほうが多そうではあるな。俺もそうだし」
「おにただ」
「出た」
「普通、残機があるほうがいい動きができるのよ」
「......いや、だからなんだよ?」
「はあ」いつもどおりのため息。「だから、恋愛でもそうなのよ」
「えーと......つまり?」
「わからない? 付き合えそうな子が一人しかいない、もしこの子と付き合えなかったら他に候補が全くいないっていう状態、これは残機がもうないって状態よね?」
「そうだな」
「そう考えていくと、付き合えそうな子が何人かいる、もしこの子と付き合えなくても他に候補が何人かいるっていう状態のほうが、余裕を持って相手と駆け引きできるわよね?」
「......そういうことね」理解はしたけど。「つまりキープ、ってやつだろ? いやいや日南、しかもあの泉優鈴をって言ってるんだろ? 無理だろそんなの。俺だぞ?」
珍しく自信満々に言い切ってやる。
「別に泉優鈴に限った話じゃないわ。そういう状態のほうがいい精神状態で動けるって話」
「いや......まあ、だとしてもそれ、不誠実じゃないか?」
そんな、キープを何人も作っておくなんて行為さ。
「あのね、別に嘘をつけって言ってるわけじゃないのよ? もしかしたら恋人に発展する可能性もありそう、ってくらいの女友達を何人も作っておくことが、余裕につながるってだけ」
「いや、でも一途じゃないっていうか......」
「ああもううるさいわね。そうやって『誠実』とか『一途』とかそんな中身がない外っつらがきれいなだけの言葉を宗教みたいに妄信してね、本当に生産的な行動から焦点がズレたりしてるような体 たらくだから、日本は国際的な意思決定で他国に遅れを取るのよ」
「なんか急にインターナショナルな話に広がったな!?」そして少し考えて。「いや、でもそれで菊池 さんの好感度が下がったら元も子もなくないか?」
「そうじゃないのよ。あのね、たしかに普通の恋愛シミュレーションゲームでは他の子の好感度を上げるような選択肢を選ぶと、メインの子の好感度が下がったりもするわ」
「そうだよな?」
「でもね、現実は違うの。むしろね、現実は『ある女の子の好感度が上がると、その子とは別の女の子の好感度も上がる』のよ」
えーと、つまり......。
「......女子のあいだで評判が上がって、ってことか?」
「まあ、簡単に言えばそうよ。ほかにも、独占欲を刺激したり、男としての格が上がって見えたり、効果は多岐に渡るわ」
「うーん、そう、なのか......。まあわかった」
どっちにしろ、いまの俺が女子の間で評判を上げられるとは思わないけど。
「......ん? それとは別に、菊池さんになにかしないのか? メインヒロインなんだろ?」
「ええ。しないわ」とだけ言って言葉を止める日南。......まあ、なにか考えがあるのだろう。
「......わかったよ。自分が不誠実だと思わない範囲でになるけどな」
「それはあなたの自由よ。とはいえ、めちゃくちゃな理屈で逃げるのは違うわよ?」
ていうかそもそも不誠実って言われるような状態って結構モテてないとならないわけで、だから自分がそうなるなんて想像はまだできないし大丈夫だろ、みたいな油断なんだけどさ実は。そんなことを言ったらまた「あなたはやる気があるの?」みたいになるから言わないけど。
「了解した。そう考えたらそのほうが効率はたしかに良さそうだし......それに、そのくらいのつもりで動かないとなかなか遠そうだしな。......『中くらいの目標』達成は」
三年に進級するまでに、彼女を作る、なんていうとんでもなさすぎる目標達成は。
「そうね」日南は頷く。「そうやって目標をちゃんと確認するのはとても大事よ」
「おっけー......やってみるわ」
「それで、なんて話しかければいいか、だけど」
「あ、一応、話題とか、暗記はしてきてるんだけど......」
俺がそう言うと日南は軽く驚き、次に嬉しそうに笑い「それなら任せるわ」と言った。
泉優鈴 に二回話しかける──。なんというか、今までの自分だったらその時点で絶対に無理だ、みたいに投げ出していたと思うけど、今はこう、がんばればやれるかもしれない、みたいな、そんな小さな自信のようなものが芽 生えつつある気がして、それがなんか自分で妙だった。
「あ、ちなみに、これは今週『毎日』だから」
「ええ!?」
そして即摘み取られるのだった。
5 強い技と装備を手に入れると嘘 みたいにスムーズに進めて楽しい
日南と出かけた土曜日とその翌日の日曜日、俺は今までの表情や姿勢の訓練と同時進行で、日南に教わった『話題の暗記』そして『相 槌のトーンの練習』を徹底的におこなっていた。
話題の暗記は自分が勉強のときによく使っている、赤ペンで書いて赤シートで隠す方式。無理してひねり出した数十個の話題を暗記した。相槌 のトーンの練習は、俺には会話する相手なんていないので母親や父親......ともそこまで会話するわけではないので、テレビをつけてトーク番組とかに相 槌を打つという悲しい方式で練習していた。出演者と同時に相槌を打つのだ。
そのときに気がついたことがあって、俺は『あいうえお』のみしか使えないから大げさに相槌を打っているつもりだったのだけど、そんな俺と、同時に相槌を打っているテレビタレントたちとで、そこまでトーンの差がなかったのだ。
しかし、テレビを傍から見ると、別にタレントたちの相槌を大げさには感じない。
──つまり、自分が大げさだと思っているこのトーンは、周りから見たときには実は自然なトーンなのだということになる。逆に言えば、今までの俺はかなり暗かったってことになる。
「いやあ! わからんもんだな!」
胸を張って口元を引き締まらせて表情豊かに明るいトーンでそう言った自分が、なにか自分じゃないような気がしてくすぐったかった。
──だから、前の俺よりは色々とうまくこなせるはずなのだ。
月曜日、教室。
「ねえ、泉さん、英語の和訳やった?」
なんて軽々しく言ってのけたように聞こえるかもしれないけど、いやむしろそう聞こえていたらなによりだけど心臓はバクバクだ。第二被服室 から教室までの移動中に言うぞ言うぞ言うぞと自分を鼓舞に鼓舞しつづけた結果、席についてから変に長い間を置くことなく言うことができた。もちろんこの英 語の宿題の話題は、暗記したうちの一つだ。
「え? あれ、友崎くん? なに? やってないの?」
え? なに? と驚きが前面に出ているけど俺が話しかけたんだから仕方ない。
「いやいや、やったよ」
泉さんはきょとん、という表情。しかし今日の俺はいつもと一味違うぞ。
「え、じゃあなに?」
体を少しひいてこちらをじっと見つめる泉さん。明らかに警戒している。あれ? やばい? いや、まだ大丈夫だ。なんせ、こっちには暗記した話題というストックがあるんだ!
「いや、ほら、急にマッコス・プーディーとかいう意味わかんない人の名前出てきてさ、アレ笑わなかった?」自分にできる最大限の自然なトーン、表情を総動員してそう言った。
「まっこす......? ごめんなに? 意味わかんない。てか私まだ和訳やってないけど......」
......えーと。じゃあどうしようかな。あれ? 話題あとなに覚えてたっけ? ちょっとまって。あれ? えーと。あと十数個は残ってるはずなんだけどさ。あれ? 頭が真っ白だぞ。
最初の空虚な余裕は跡形もなく吹っ飛び、異常に速い鼓動だけが残る。
「あ、そうなんだ!」と明るいトーンで言ったつもりだけど焦りでどうなっていることだろう。
「うん、ていうかどーしたのいきなり。それだけ?」
「あ、うん、ごめん」明るいトーンを維持できている気がまったくしない。
「別にいいけど......え、もういい?」
「あ、ちょっと......」
「ん?」
「えーと......あ、いや、なんでも......ない」
俺のへにゃへにゃな肯定の言葉を確認した泉さんは一度首を傾げ、そしてススーッと教室の窓際後ろ、いつものリア充たちが固まるゾーンへと移動していった。
あれ?
──がんばったのだからうまくこなせるかもしれないとか思ったりもしていたけどまったくこなせなかった。ははははは。なにこれ? ていう か、いやいや。そりゃそうだろ。だって俺だぞ。なーに勘違いしてんだか。調子に乗ってんじゃないよ。俺なんてこんなもんだろ。昔からそうだったろ。できな いできない、無理無理。やっぱりあれだ。俺に実践は早いよ日南。
完全に戦意と自信を喪失した俺は授業なんて耳に入らず、放課後の反省会でなにを言われるだろう、なにを言うべきだろう、ということだけが 頭を巡っていた。しかし、そんなこと知らん、とでも言うように、二時間目と三時間目のあいだの休み時間。俺がトイレから戻ってくると、俺が机の上に出しっ ぱなしにしていたプリントに短くこう書かれていた。
『一日〝二回〟』
まじですか......。日南さん。あの地獄をもう一度味わえと......?
「ふ──!」
一度砕かれた自信に迷ったが、自分で決めたことだからやるしかない、というアタファミその他のゲームで培 った負けず嫌い精神を無理やり起動させ、闘志を人為的に再点火する。ここで負けたら自分への敗北だ、パチン。頬を両手で叩 く。やると決めたらやる、やると決めたらやる。やらないのはクソゲーだと判断して全部やめる時だ。それまでは。
どうせメインヒロインじゃないんだしそもそも関わりも薄いしどう思われようが関係ねえだろ! だから大丈夫! 変な感じになってもそれは一時だけの恥! 平気!
そんなふうに自己暗示をかけながらタイミングをうかがっているが、三時間目のあとの休み時間、昼休み、五時間目の休み時間、と三度も話しかけられるタイミングを逃してしまった。
物理的に無理だったならまだしも、チャンスがあったのにそれを恐怖で逃すなんてナンセンスだ。あっちゃならないと思う。どうにかこの闘志で体を動かさなければ。
そして放課後、帰りの挨拶が終わった直後。これを逃せば泉優 鈴 はまたいつもの窓際後ろへ移動し、リア充グループと合流し帰路につくだろう。これが事実上最後のチャンスだ。話題も暗記のストックがまだある。これならそこまで不自然じゃない、はず。大丈夫だ!
俺は息を吸い込む。そして、言葉を絞り出した。
「あのさ、泉さん」
──自分にしか聞こえないようなごく小さな音量で。
当然、泉優鈴はそんな小さな音量で発せられた言葉に気がつくはずもなく、いつものグループに合流し、帰っていったのだった。
「まあ、ここに来ただけ偉いわ」
放課後の第二被服室。俺の心情を見透かしたようにそう言う日南。
「......すいませんでした」
自然とそう言っていた。心から申し訳ないと思っている。掛け値なしにしゅんとしている。
「私があなたの友達ならここで優しい言葉でもかけるんでしょうけど」俺はしゅんとしているので日南の顔が見れない。「私はあなたの指導者の立場だわ。もし友達だとしてもそれは戦友としてよ。だから私はあくまであなたに指導するわ」
まったくもって全文そのとおりだと思います。
「今日の反省会は短いわよ。言いたいことは二つだけ」
「二つだけ?」
「ええ。まずひとつ。『甘えたら終わり。言い訳しても終わり。反省しなさい』」
日南は厳しい眼光で言う。
「......は、はい!」
俺の心に大きく響く。
「で、二つ目。『明日以降も、このままの調子でがんばりなさい』」
「......え?」
「今日のあなたの行動は想定内よ。こうなる可能性も考慮して課題を出したわ。だから問題ない。ちゃんと訓練になってる。ただし、キチンと一日二回のノルマは達成できるように心がけること。それだけよ。いい?」
「想定内?」
「ええ。だから明日以降は必ずこなしなさい」
「いや......でも、正直また話しかけられるかどうか自信が......話題も、失敗したし」
「今日のは偶然よ。優鈴 が偶然和訳をやっていなかったから成立しなかったけれど、話題としてはそこまで悪くなかったし、言い方や表情もまあ、及第点ではあったわ。ギリギリね」
「そ、そうなのか?」
「ええ」
「でも、次に俺が用意している話題が大丈夫かもわからないし......」
「気にしすぎよ。話題なんてなんでもいいの。どうしてもなかったら、相手の表情とか、髪型とか、『相手について』を話題にすればなんとかなるわ。とにかくなんでもいいのよ」
「そ、そうなのか......?」
「ええ。だから明日もその調子でやれば、普通に会話が成立する可能性が高いわ」
「......でも」
「ああもう、でもでもうるさいわね! いい? 『でも』って言葉はね、逃げる言い訳のために使うべき言葉じゃなくて、妥協している状況をより良い方向へと修正するために使うべき言葉なのよ。私が本当のこと以外を言ったことがある? いいから黙ってやりなさい」
そして突然、おしりを鷲掴みにされた。
「ワアオ!?」
「こうやって説教を受けている最中もしっかり姿勢の訓練をしていることがなによりの証拠よ。きちんとがんばっているじゃない。いい? すべての努力が報われるとは言わないけど、このくらいの、そこまで高くない目標に向けた努力ならね、正しく行えば誰 でも必ず報われるのよ」
「日南......」
お前ってやつは実は......。
「......なに? ぼーっとして。どうせまた見当違いなことでも考えてるんでしょ? そんな暇 があったら、これまでの反省とかこれからどうするかについて考えなさいよ。あなたはあなたが思ってる以上に問題だらけなのよ? 毒・混乱・呪われ装備のデクの坊ってところね」
実は優しいやつ......と思いそうになった。危ない危ない。
そして次の日。日南がそう言っていたのだからたぶん本当に、あのままの感じで話しかければ本来会話が成立する可能性が高いのだろう。てい うかそうだよな。『会話を成立させる』ってこと自体はそこまで難易度の高いことじゃないはずだ。俺だって家族との会話はまあできるし、日南ともできてい る。なんとか、みみみともできたし。だから要は話題と自然な喋り方があれば大丈夫なわけで、そこから先はもう勇気の問題なんだ......と思う。
昨日落ち込みまくって帰ったあと、日南にメールで泉優鈴 の交友関係などについて聞いた。それによって話題はさらに十数個増えた。暗記も完璧 にした。緊張してパニクっても思い出せるよう、入念にした。これなら大丈夫だ......と思わせてほしい。
朝のホームルームはタイミングがなかったが、一時間目終了後、タイミングがやってきた。
どうにでもなれ!
「ねえ、泉さん」
泉優鈴がこちらに振り向く。それを確認した俺は大げさに──おそらく傍から見たらそこまで大げさではないのだろうが──息を潜 めてこう言った。
「あのさ、中村ってさ、まだ俺のこと怒ってそう?」
「え?」と一瞬戸惑 った泉さんはその後すぐ、同じように息を潜めて、そして軽く笑いながらこう言った。「あはは、なにそれ、なんでそれを私に聞くの?」
その自然で楽しそうな笑顔に緊張の一部がとけて、俺はすぐさまこう返す。
「え......中村と仲いいって聞いたんだけど」
「なにそれ? だれに?」
「えーと」正直に言うか。「日南」
お互いに声を潜めながら会話する。小声でトーンはあまり作れないから表情を意識する。
「あー。友崎くんってさ、なんか最近葵 と仲いいよね? なになになんかあるの!?」
「い、いや、なんもなんも!」
「ふーん、ホント~?」訝しげだ。「まー、いっか。で、えっと。修二 が怒ってるか?」
「そうそう」
「怒ってるっていうか、悔しがってるって感じだよねー。あれは」
「悔しがってる?」わかりやすく眉をひそめながら。
「そうそう。めちゃくちゃ練習してるよ、アタファミ。キモいくらい」
そうなのか、と驚くと同時に、アタファミを練習するとキモいのか、とダメージを受ける。
「へー。そうなんだ」そして暗記した話題を思い出して。「いや俺、中村 とアタファミで対戦して勝ったあと、絶対クラスでいじめにあうと思ってたからさ」
「なにそれそーなんだ?」息を潜めながら笑ってくれた。「やばいね」
「うん、だから、今後が気になって」
「心配性すぎ! そーはならないから大丈夫だよたぶん」
「あ、ほんと? ならよかった」大げさにホッとしたトーンと表情。
「あはは、よかったね」
「うん」
よし! これでおっけー! 耐えた! 耐え切った! 会話が終わった感じになったからもうこれ以上続けてボロが出ないうちに一時退却しよう。一日二回だからあと金曜までに七回も残ってるんだ。無理は禁物無理は禁物。
そんなふうにして、その後の七回も、ときにはしどろもどろに、ときには気まずくもなりながら気合だけで乗り切った。まあ正直、さっきの中 村についての会話が一番長く続いた例で、それ以外は一応話しかけて会話はすることができたよくらいの、ありていに言えば赤点付近を七連発といったところ だった。赤点はたぶん三個か四個。「あれ? 泉 さん、カーディガン昨日と違う?」「え? 同じだけど......」「あ、気のせい、か」「あ、うん」「......」「......」という会話を赤点に入れなくていいなら、三個だ。まあ及第点だろう。はははは。はあ。最悪だぜ。
「及第点ね」
「まじかよ」
第二被服室。本当に及第点なはずはないと思っていたので驚く。
「というより、一日二回話しかけるって課題を、ちゃんと実行できた時点で合格なのよ」
「......そうなのか? 会話に失敗しても問題ない、と?」
「そうね」そこで俺ははっと気がつく。
「つまり......話しかける勇気を試す試練だったってことか!」
「ハズレ」
「あれ......? じゃ、じゃあなんなんだ?」
そう俺が言うと、日南は指をピースの形にしてこう言った。
「ゲームオーバーってあるじゃない? あれには二種類あるんだけど、わかる?」
「また突然だな。ゲームオーバーに二種類? ......なんだそれ? わからん」
「それはね」左右の手を順番に上に向けて開きながら。「セーブしたところから全部やり直しになるパターンと、やられたところまでの状態を引き継いだ上でリトライになるパターンよ」
「ああ、なるほど。たしかにそれはゲームによって違うな。......けど、それが?」
「あなたは今回、優鈴と会話したわね。これはいわば敵との戦闘よ。そしてそれに失敗して敗北、ゲームオーバーになったわけね」
「あ、やっぱ失敗だったんだ」
「当たり前じゃない。三ラリーで終わる会話なんて会話のうちに入らないわ」
「......で、ですよね」
「それで、よ。この会話という戦闘でのゲームオーバーは、どっちのパターンだかわかる?」
「......まあ、引き継ぐほうのパターンだよな」
「そう! 人生にセーブポイントなんてないからね。けど、負けても所持金が半分になったりもしないのよ。だから、戦闘に負けることにデメリットがない。どんどん戦ったほうが得なの。それに、何回も戦っていればいつかラッキーで勝てるかもしれないでしょ?」
「......まあ、そうといえばそうか?」
「でもね。本当に大事なのはそこじゃない。いい? 『人生』のゲームオーバーにはね。他のすべてのゲームとは、まったく違う特徴が一つだけ、あるのよ。......それがなにかわかる?」
ニヤリと笑いながら俺の目を覗き込んでくる。
「って言われても......広すぎてなにやらなあ」
俺がそう悩んでいると、日南はそれはね、と前置きし、ゆっくりとこう言った。
「『人生』は、戦闘に勝ったときじゃなくてね、負けたときにこそ、経験値が入るのよ」
「......ほお」
いい話みたいになってきた。
「だからこの一週間、しつこく泉 優鈴という強敵と戦って敗北を重ねてきたわけだけど、それはそのまま経験値となって、あなたの中に蓄積されてるわ。それも、あなたはちゃんと、ああするべきか、こうするべきか、みたいに、あれこれ考えながら挑戦していたでしょ?」
「まあ、そうだな」そこの信頼が少し嬉しかった。
「正直、泉優鈴には『なんか変に話しかけてくるやつ』って印象を与えたと思うけど」
「あ、やっぱそうなんだ?」
「それ以上に得たものも大きいわ。あなたも自分で気がついていたんじゃない? 後半に行くに従って、緊張も抜けて、こなれてきていたってこと」
「まあ......そうなんだよな」
たしかに、まあ会話自体は長く続きはしなかったが、特に後半の二回、なんというかおそらく俺が産道から抜けてきた瞬間から常に発せられ続けていたであろう『キモチワルサ』みたいなものが、あんまりなかったように思う。自分で言うのもあれだけど。
「そんなわけで、この一週間の『敗北による経験値稼ぎ』はこれで終わりね。......他になにか、気になることはあった?」
「あ、それがさ」あったんだよな。「菊池さんが俺に好意を持ってるとか言ってたよな?」
「ええ、言ったわね。それが?」
「まあ、好意、とまでのものではないと思うけど......その理由がわかった」
日南は身をこちらにズイとよせる。近い近い。心臓に悪いからやめて。
「どういうことよ?」
眉はひそめられているが、目は期待にも見えるなにかで輝いていた。
***
それは金曜日の四時間目。泉優鈴 との会話ノルマ達成まであと一回という状況だった。
既に何回も何回も話しかけているだけに、まあなんとなく慣れて、というか麻痺 してきていて、会話が続かなくてもまたか、みたいな、別にいっか、みたいに思えるようになり、焦りから解放されてきていた。
だからとにかくあと一回、どこかでタイミングがあれば軽い気持ちでこなせるはずだ、みたいな余裕のある心境だった。そんな心境だったから、移動教室のとき、一度図書室で時間を潰 してから時間ギリギリでその教室へ向かう、といういつも通りの行動をすることができた。とはいえ、いつもなら本を読むフリでもしながらアタファミの戦法を検討しているところを、今日ばかりは暗記している話題の復習とか、そういうことに意識を割 いてはいたのだけど。
──そんなときだった。
「友崎くん」
「うお!?」
突然、恐ろしいほど透き通った声で俺の名前が呼ばれた。声の方向へ振り返ると、そこには両手で本を抱えたまま俺の顔を覗 き込む光の天使、じゃなくて菊池風香さんがいた。
「......あれ? 菊池さん? なんでここに?」
「なんでって、いつもどおりですよ......?」
「......いつもどおり?」
どういうことだろう。なにか思い当たるフシはないか考えようとするが、菊池さんから発せられている楽園のお花畑みたいな香りに脳をふんわりと揺らされてそれどころではない。
「ほら......移動教室の前、いっつも、友崎くんと、私だけでしょ......?」
「えーと......移動教室のときいつも?」
「あ......もしかして......気づいてませんでした?」
ってことは。
「......あー、つまり」
「うちのクラスが移動教室のとき、いっつもここにいますよね......?」
「う、うん」
「私もいっつもそうしてたから......あ、またいる、って思ってて......」
「あ、そうなんだ? ごめん俺、集中してたから......」
アタファミの戦法の検討にな。見ると、菊池さんの視線は俺の開いている本に向いていた。
「......マイケル・アンディ、好きなんですよね......?」
「え?」
「あれ......? 違いました? いつも読んでたので......」
ああ、そうか、俺が、読んでいるフリをしてる本。図書室で座る椅子 はなんとなく決めていて、いつもそこから一番近い本棚の端っこから本を手にとっているから、毎回これになっていたのかもしれない。......けど、なんて説明すればいいかわからず、こう言ってしまった。
「ああ、まあ、ね。ほら、そんなすごい好きとかじゃないけどさ......」
さあ、どうしよう。どうにか内容をなんとなく把握してこの場を乗りきれないだろうかと開いている本の中身に初めて目を向けてみたが、「エ ビ・ダイテ!」「モーズン・レクク!」という意味不明にもほどがある暗号のような会話文が目に入り、しかもそれが二セットもあり、ああ、これは付け焼き刃 じゃ無理だなと悟らされた。
「やっぱり......!」菊池さんは、普段から魔法の力で輝かせているであろう目を、さらにキラキラと輝かせる。「私もね、アンディ作品、すごい好きなの......!」
「あ、そ、そうなんだ」やっばいどうしよう。「ぐ、偶然だねえ......」
「そう! すごい偶然!」
菊池さんは自分の唇の前で優しく両手を合わせる。
「これって、『猛禽の島とポポル』みたいじゃないですか......!?」
「え? 猛禽......?」
「アンディ作品の......あ、まだ読んでない......? そっか、図書室にないですもんね......」
「え? あ、そうそう! えっと、ほら、ほら、読みたいんだけどなかなか......ね、あはは」
俺が取り繕うと、菊池さんは精霊のしずくで魔力二倍、みたいな感じで目をさらに輝かせた。
「そう! なかなかない!」
「え?」
「あの本、二十年前の翻訳から新しいのが出てないから、意外と置いてないんですよね、代表作の一つなのに......! もっと置けばいいのに!」
『読んでない』ということにすらさらなる食いつきを見せられ、俺は逃げ場を失う。
「え? あ、そ、そうそう! そうなんだよね、あはは......」
「あ、あの......」そして菊池さんはなにか意を決したような表情に変わる。「友崎くんなら......いいよね」
小さな声で自分に言い聞かすように。
あ......こ、これは。なんというか今、大切な秘密を明かす、みたいな空気が流れてる気がする。エロゲとかラノベとかだったら絶対そうだ。そのフラグの匂 いだ。しかしこれはたぶん俺がアンディなんちゃら仲間だから、という意識が働いてのことだろう。じゃあ俺はこれを聞かないほうがいいのではないか、とか思っている間に菊 池さんは口を開いている。
「実は私......小説を書いてて。......アンディ作品に影響を受けてなんですけど。......よかったら、読んでくれませんか?」
「え!? あ、うん小説!? 書いてる!?」
予想外の角度からの一撃と、神木の朝露で濡れたような瞳に、脳を揺さぶられる。
「はい......。やっぱり、だめでしょうか? ......そ、そうだよね突然......迷、惑......」
「あ、ううんううん! そ、そんなことない! いいよいいよ! 俺でよければ!」
反射的にそう言ってしまう。菊池さんはパアァァと太陽のような表情になる。
「ほ、ほんと? ありがとう! こ、今度持ってきますね......!」
「う、うん! えっと......こ、こっちこそありがとね」
「うん!」透き通っていてなおかつ、跳ねた声。「......まだ、誰にも見せたことないんです」
「あ、そう、なんだ......? い、いいの? 俺なんかで......?」
温かい光に満ちた菊池さんの表情と対照的に、俺の背筋は後ろめたい汗で冷えていた。
「いいんです! その......むしろ、友崎 くんだから......。じゃ、じゃなくて! あ、あの! ......このことは......秘密ですよ?」
その蠱惑的な疑問形を前に、俺の首は洗脳されたかのごとく頷かされていた。
「う、うん。わかった、ひみつ」
そして菊池さんは「......それじゃあ」とだけ言って席を立ち、部屋を出る直前でくるりと振り返ると、イタズラっぽい表情と声で、こう言った。
「エビ・ダイテ!」
あはは。だめだ。これは後戻りできない。もう知るか! 毒を食らわばなんとやらじゃ!
「モーズン・レクク!」
その言葉を聞いた菊池さんは、その森の妖精のように繊細な風貌 からは想像しづらい、光の噴水のような笑顔で図書室を照らしたあと、トテトテと狭い歩幅の小走りで去っていった。
まだ移動教室までは時間がある。なんというかそれは、会話がうまくいったからボロを出す前に、という、数日前の俺が体験したのと同じ心境なのだろうか。とか分析してぽかーんと現実逃避をするしかないのだった。やっちまった。どーしよ。
***
「ということがありまして......」
俺は、菊池さんが小説を書いているという部分だけはしっかりとぼかしながら、日南 に一連の流れを説明した。
「なによそれ。バカみたいに脈ありじゃない。中くらいの目標達成まで一週間ってとこね」
つまらなそうに日南が言う。いやいやいや。
「いやいやちょっと待ってくれよ。これで付き合うとかなんて、ないだろ。そんなのって、騙 してるのと同じだし。そもそも好きな作家が一緒だったとしても俺なんかと付き合おうとはならないだろ。それに俺も、菊池さんのこと、好き、とかじゃない、し」
「あら、女を騙してその気にさせておいて、ひどい言い草ね」
「待て、その言い方は語弊がある」
「なにも語弊なんてないわよ。図書室でずっと目にしていて、なんとなく意識していた男の子がいた。意を決して、その男の子に図書室で話しかけてみたら、思いのほか会話が弾んで、楽しい気持ちになった。しかも最後には、その作家の作品に出てくる秘密の挨 拶を交わすこともできた。......まあ、恋愛慣れしてなければ、惚 れてもおかしくはないわね」
「待て、そうやって一部だけ取り出すな。ティッシュを借りて、洟をかむ恥ずかしい瞬間を見られたりもしてるんだぞ」
「二人だけの秘密?」
「からかうな」
「......まあ、いまは冗談のように言ったけど、これは本気よ。惚れてるなんてのは言いすぎだけど、軽い好意を持たれている可能性は高いわ。確定はまだ、できないくらいだけどね」
日南の目は本気だ。
「だから、俺なんかに惚れるわけない、みたいな自虐で現実から逃げるほうがよっぽど卑 怯よ」
......正直、そんなのありえないだろという感覚のほうが強い。だからあまりリアルに考えづらい。でももし本当に日南の言うとおりな のだとしたらたしかに、逃げるほうが最低だ。しかも、日南は知らない、小説の件もある。それを考えるとさらに可能性は高まるってことだよな? けど、じゃ あ俺はどうするべきなんだよ? どう考えるべきだよ?
「とりあえず、それが本当だとしたら......俺が悪い、よな」
「は? なによ悪いって」
「なにって、その場で、いや本なんて読んでなくて、って説明しなかった俺がさ」
「......それのなにが悪いのよ? 別に、騙すつもりはなかったんでしょう?」
「いや、騙すつもりではなかったけど、結果、嘘になっちゃったわけだし......」
「別にそれなら気にしなくていいじゃない。そんなしょうもないことでグチグチ悩んでどうするのよ。女々 しいわね。大事なのはこれからどうするかよ」
「......そうだな。やっぱり、正直に言うべきだよな」
「デートしてきなさいよ」
「は?」
「だから、風香ちゃんと、デートの約束してくればいいじゃない」
「いやお前、それはさすがに最低」
「なにが最低なのよ。いい? 『好きな作家が一緒』なんてあくまでキッカケ。だから好きになりました、だなんて、人間の感情はそんなに単純 じゃないわ。大事なのは、どういうふうに話して、どういうふうにお互いを理解して、どういうふうな思い出を作るかよ。最初のキッカケにちょっと勘違いが あったんだとしても、大事なのはそこじゃない。もしデートしてみて、好きな作家とか関係なく、お互いに楽しかったら、それが二人の関係の本質でしょ?」
「そ、それは......そうかもしれないけど」
「人と人とが深く知り合う機会なんてあんまりないのよ。だったら、もしそれが嘘から生まれたものでも、そういう機会に恵まれそうだったら、飛び込んでみるべきじゃない?」
「いや、理屈はわかるけどさ......でもそれってやっぱり誠実じゃないような......」
「理屈がわかるなら正しいってわかるでしょう? なにを童貞くさいこと言ってるのよ」
「うるせえよ、実際に童貞なんだよ」
......日南が言いたいこともわかる。でもやっぱり、理屈じゃないところで、不誠実なんじゃないか、という気もする。
「......まあいいわ。最強の剣で戦うよりも、最初から鍛冶屋で鍛 えてきた剣で戦いたい、という気持ちもわかるしね。理屈の上での最強が、本当に正解とは限らない。私はあくまで攻略本。最後に選ぶのはあなたよ」
......俺は......。
そんな簡単に答えなんて出ないまま、その日は帰ることとなった。日南と別れ、一人で下駄箱 へ向かうと、教室とは違う方向から明らかにトボトボとした様子で歩いてくる泉優鈴 が目に入った。えーと、どうしよ。今日のノルマの二回はもう終えているから別に話しかける必要はない。......けど。ゲームにおいて、指示されたことしかやらないってのはどうなんだ。日本一を自負するゲーマーとして、それは癪 に障る。全部あいつ任せってのも気に食わない。
なら。よし、やってみるか、自主的な『レベル上げ』。
姿勢と表情、声のトーンに気を配りつつ、できるだけ自然になるよう、声を発した。
「泉さん?」
ビクッと体を震わせながらこちらに顔を向ける泉優鈴。
「......友崎......?」
と落胆したような安心したような口調。......なんかいつもと雰囲気 が違う。全体的に吐き捨てるような感じになっているというか。そういえば俺のことも呼び捨てじゃなかったはずだ。
......というかやばい。えーと、いくつも話題暗記してきたはずなんだけど、わざわざ放課後に声をかけてするほどの話題がその中にな い。あー、これはまずい。また、頭が真っ白になっていく。まずいまずい。でも、思い出せ。今まで色々訓練を重ねてきたんだ、なら、なにか打開策があるはず だ。今まで日南から教わった攻略法、または俺がしてきた努力、その中に。
──『相手の表情とか、髪型とか、「相手について」を話題にすればなんとかなるわ』
フラッシュバック。そうだ。今週頭の反省会で日南が言っていた。話題がないときはそうしろって。話題はないけど、これならなんとかなるかもしれない。相手の表情......。
「......泉さん、顔暗いね」
なんだよその言い方。ここでイケメンならスルッと『どうしたの?』『話くらい聞くよ』みたいなセリフが出てくるのだろうか。ところが残念俺でした! そうはなりません。
「はあ!? 別に暗くないし! なに!?」
「あ、いや、ごめん」めっちゃ怒られた。
「......なに見てんの?」
「あ、いや」
「......」
「......」
あー。またやっちゃった。もうだめだ。勝手なことをするのはやめよう。勝手にやってうまくいった試しがない。俺はまだまだ初心者の域にすら到達できてないんだ、そうなんだ。
「......ねえ」
「え?」
「......友崎、アタファミ強いんだよね?」
「え?」
なんでこのタイミングでそんなことを?
「..................よ」
俯きながらボソボソと、なにか言っている。
「......え? なんて?」
「............てよ」
「ごめん、なんて?」
「ああもう! だから!」
そう声を張り上げてこっちを睨んだ泉優鈴 の目には大粒の涙が浮かんでいた。はあ!?
「私にアタファミ教えてって言ったの!」
意味がわかんねえ!
***
──泉優鈴の話をまとめるとこうだった。これまで泉優鈴と中 村は 仲が良く、放課後は一緒に下校することも多かった。しかし最近中村は毎日、校内の使われていないとある教室を放課後占拠して、ゲーム機を持ち込み、仲間内 対戦、または校内職員室のWi-fiを使ったネット対戦でアタファミの練習をするようになった。泉優鈴が放課後その教室へ行き、一緒に帰ろうと誘っても、 「うるさい邪魔するな」の一点張りで取り合ってくれない。
泉優鈴はそれならば、とアタファミの練習に付き合うことを申し出た。が、一戦交えるも惨敗。その圧倒的な実力差に中村からは「練習にならないしウザい。いいからつきまとうな」と一 蹴されてしまった──と。
「あー、なるほどね」
まあ、そりゃ中村とそこら辺の女子じゃ、練習にすらならないよな、あいつ弱くはないし。
「うーん、なんというか、散々だな」
「......別に感想とか聞いてないんだけど!」赤面しながら感情が高ぶった声色で言う泉。「で!? 教えてくれるの!? くれないの!?」
なんというか、もう見られちゃったし恥も外聞も知るか、みたいな開き直りを感じる。
「いや、別にいいけどさ......」
「え! いいの!? ほんとに!?」
目を輝かせながらこちらにズイ。近い近い。日南といい、なんでリア充はこうも人との距離が近いかな。それ非リアには致死の距離なんだけど。
「でも、泉さんアタファミ持ってる?」
「え? 持ってないけど、別に友崎のでよくない? ゲーム機はあるよ?」
「......いやまあ、それはいいけどさ」だとしたら大きな問題がある。「......どこでやるの?」
「......っ!」
泉優鈴は目を大きく開いて赤面した。え。なにこのウブなリアクション。意外。
「やる場所、ないんだよな」
でも、そうなのだ。もし泉優鈴がアタファミを持っているのなら、ネット対戦で、という手はあるけど、そうじゃないのなら必然的に俺の家か、泉優鈴の家でやることになる。男女二人っきりで。
「......でも......!」嘆願するような、諦めきれない、といった表情。
「でも、どっちの家に行くってのもなかなか......」
「......いい。平気」
キリッとした眼差 し、のようで、よく見ると目に涙が浮かんでいるのでたぶん無理しているんだろうなこれ。つまりやっぱ俺と二人って、そこまでいやなんだな。ぐさり。
「......ならいいけど......」俺は感じていた疑問をぶつける。「なんでそこまでするの?」
すると泉優鈴は怒ったような驚いたような表情でこちらを向く。
「はあ!? それ聞く!? ふつう話聞いたらわかんない!?」
「ふつう......?」
「ばかじゃないの!? ほんっと鈍感すぎキモい!」
最近の若者はすぐキモいって言うな。
「鈍感......?」ってことはそういう系の話なのか。「......あっ」
「は? なに?」
合点がいった。そして合点がいった勢いでつい口を滑らせてしまった。
「泉さんが中村のこと好きってことか!」
見ると、泉優鈴は湯気が出るくらい顔を真っ赤にしていた。
「ほんっとキモい! ありえない!!」
体を回転させてネクタイとスカートをひらりとさせながらのスクールバッグによる一撃が、俺の顔面にクリーンヒットした。
「......っつ......。で、えーと......」
「あ、ご、ごめん......けど、友崎が変なこと言うから! ......大丈夫?」
泉優鈴は俯いた俺の顔を下から心配そうに覗 き込み、その距離の近さと顔の造形のかわいさに俺は思わず「大丈夫大丈夫!」とか変なテンションで言いながらのけぞる。
「ほんと? はー......けどさ! あのね? もうホント修二 意味わかんないんだって! エリカいるでしょ? あの子、修二に告白したけどフラれたの。あのエリカがだよ!? それで、でも私とはよく遊んでくれるし......じゃあ、私の事好きなのかな? とか......わー! そうじゃなくて! ああ、もうでもそう思うじゃん普通!? なのに急にうるさいとかつきまとうなとか......。なんなの!? どう思う!?」
「ど、どう思う? え、なんだろ、わけわかんない、かな?」
「だよね!? しかもね!?」
......振り回されてんなー。青春してんなー。女の子ってホント愚痴れれば誰 でもいいのな。
じんじんする鼻をさすりながら思考を巡らせる。泉優鈴は憤慨しながらそれでねそれでね、と至極私的な愚痴をまくし立てるが、内容は一切頭 に入ってこない。これは大変なことになったぞ。こいつは掛け値なしのリア充、なにしろあの中村と仲がいいってくらいなのだから相当の充実力を誇る。しかも 顔がかわいく胸がでかい。そんな泉優鈴と二人っきりでどちらかの家に行く? なんだこれ。おかしい。ねえ日南さん、いつも憎まれ口ばっかり叩 いてすいません、これ俺どうしたらいいですか?
「で......えーと、どっちにします? 家」
「えーと、......友崎の家でいい? うちは......ちょっと」
「あー、うち......か。泉さんの家はまずいんだ?」
「そ、そりゃそうでしょ! ......親に、説明できないし......ごめん」
「......わかった」
一度は声を荒らげながらも申し訳なさそうにしゅんとする泉優鈴。悪い子ではなさそう。
......っていうか、ん? ......親? ......あ。ここで俺はとんでもないことに気がついた。
「あ、待った。うち無理だ。泉さんの家じゃないと」
「は!? なんで! 一回オッケーしたじゃん!」
「そうなんだけどさ......泉さん、バドミントン部だよね?」
「え? 私? そうだけど」
「ほら一年に友崎っているのわかるでしょ? てか結構仲いいでしょ?」
話はたまに聞く。
「え、うん、ザッキーのこと? 知ってるけど......って、え? 『トモザキ』?」
「うん。あいつ、俺の妹」
「......えええええぇぇ!?」
そんなに驚かなくても、という俺の声がかき消される。
「ちょっと待って! 似てなさすぎ! 性格とか特に! なにそれ! 意味わかんない!」
「わかってるよ、俺だって血がつながってるとは思えないって感じてるよ」
「だってザッキーめちゃくちゃ明るくていい子だよ? 友崎めっちゃ暗いじゃん! え!? ありえなくない!? おかしいでしょ!」
「あー! わかってるって! そんな言うな! 落ち込んでくるから!」
「......あ、ご、ごめん」そして冷静になった泉優鈴は問題点に気がつく。「......無理だ」
「......だよな」
そりゃそうだ。後輩なんて、親なんかより余計どうやって説明すればいいかわからない。
「じゃ、じゃあ......うちしか......」
「......だね。......やめと」
「ううん、いい。やる。来て」
毒を飲む覚悟でも決めたような澄んだ表情でこちらを見ている。うん。恋する女子っていうのは強い。恋した相手のためなら、どんなにつらいことでも我慢ができるのだ。俺が家に来るのがそんなにつらいことですか、ってことからは目を逸 らしたい。
「......そうか」
「けど、友崎はいいの?」
と確認された。思ったより人の顔色をうかがうたちなのか。断ることもできそうだ。
......どうするべきだろうか。現状俺がある程度使える武器は表情、姿勢、声のトーン、暗記した話題だけだ。はたしてそれだけで『泉優 鈴の家』なんていう超絶高難易度なダンジョンをクリアできるのだろうか? まあ、普通に考えて、できるはずがない。待っているのは惨めな敗北だけだ。じゃあ、だめだ。逃げたほうがいい。逃げる。俺はそうやってきたんだ。勝てない敵からは逃げて、準備を整えてから再戦する。それがゲームの定石ってやつだからな。
『「人生」は、戦闘に勝ったときじゃなくてね、負けたときにこそ、経験値が入るのよ』
またフラッシュバック。
ああそうでしたね、そうだった。その言葉を妄信するわけじゃないけど、でも実際、俺は今こうして泉優鈴とある程度普通に『会話』できてい た。これはいままでの俺では考えられなかった事態だ。この『結果』を生んだ『原因』は、負けたときに入った経験値によるレベルアップだ、と決めつけてしま うのはまだ早いけど、でもそう考えるのが自然なのも事実だ。ああもう。わかったわかった。俺だってゲーマーだ。おい日南 。見てろよ。だったらその『原因』が本当にお前の言う『負けたときの経験値』ってもんで正しいのかどうか検証するために、ここらで一発、大敗を喫してやろうじゃないか。あとで吠 え面かいても知らねえからな!
「......いや、大丈夫。行くよ」覚悟を決めた俺は冷静にそう言った。「家、どのへん?」
泉優鈴はそんな俺をなぜか不満そうに眺めていた。
「......友崎なんでそんな落ち着いてんの? なに? 女の子の家行ったこととかあるわけ?」
「え、いや......」ない、と言おうとしたとき、日南の顔が浮かんだ。「あ、いや一応あるか」
「はあ!? なにそれ! 友崎のくせに! 私だって、......あれなのに」
なんだ友崎のくせにって。どういう意味だ。俺が非リア丸出しだから女の子の家になんて行ったことあるわけないしあったらキモいとでも言いたいのか。たしかに俺は非リアだけどそんなこと言われる筋合いはないつもりだけどな。と、そのまま声に出して言った。
「そういう変な口調がキモいんだけど。......もう、いいからこっち」
「あ、待って、アタファミ取りに行かないとだ」
「あ、そっか」
一度家に戻り、アタファミと、いくつか用意してすぐ外に出る。
「じゃ、こっち」
そうして、超難関ダンジョンへと招かれるのだった。よーし見てろ日南? 惨敗してやるよ。
***
他の例をそれしか知らないので自ずとそれと比べることになるが、日南 の部屋と比べて雑多、というのが最初の印象だった。別に散らかっている、というわけではないのだが、ベッドにキャラクターもののぬいぐるみがいくつも置いてあったり、机の上にはなにやらポップな表紙のファッション誌らしきものがところ狭しと並んでいたりして、どこを見ても泉 の部屋は賑 やかで華やかだ。しかもそれらは俺でもなんとなく名前を知っているキャラクターや雑誌ばかりで、なんというか流行に媚 でも売っているのだろうかと思わされるラインナップ。壁には過剰に装飾されたコルクボードがかけられていて、クラスメイトのリア充たちと写った写真やプリクラが無造作に貼りつけられている。あれがいわゆるズッ友ってやつだろう。
「友崎、見すぎ」
「あ、わるい」
おぼんにかわいいマグカップと普通の紙コップを載せた泉優鈴がやってくる。
俺がそれを「......」という感じで見ていると「うるさい! 文句言うな!」と言われた。いや、言ってないから。
「それで......なにすればいいの?」
コントローラーを握り、姿勢を正し、テレビに映るオープニング画面と至極真剣な表情で向かい合いながら、泉が言う。その大きくて丸っこい目にゲーム画面が写り込んでいる。
「そうだな......とりあえず」俺はリア充のオーラに窒息しない適切な距離を保った位置に座り、コントローラーを握った。「一回、戦ってみるか」
「え!? いや無理無理! だって友崎、修二 より強いんでしょ!? 無理だって!」
「いや、そうだけど......ほら、泉がどのくらいの実力なのかわからないと......」
と口に出して、さり気なく泉のことを泉と呼び捨てにできていたことに気がついた。これは何度も敗北したことによる成長なのかアタファミのおかげなのかそれともスクールバッグで殴られたしもう知るか、という心なのかはわからない。
「そ、そういうものなんだ......? じゃ、じゃあ」
おずおずと緊張したような姿勢になる泉。肩がグッと上がる。口はきゅっと引き結ばれて眉はきりりと真剣だ。なんかこの表情、妙に似合ってるな。
キャラクター選択画面で俺が中村 のマイキャラであるフォクシーを選択すると、泉はキャラの中でも一番華があって、可愛らしい容姿をした女剣士を選択した。
「あ、ちょっと待って」
「え? なに? これまずい?」
たしかにもし泉の目的がただ単に『アタファミが好きだから強くなりたい』ということならば、自分の好きなキャラクターを使ったほうがいい。
けれど、今回の泉の目的は『中村の練習相手になること』だ。それならば......。
「これ、使って」ファウンドをカーソルで指し示した。「これが俺の使ってるキャラだから」
「え? 友崎の? これのほうがいいの?」
「いや、中村は俺に勝つために練習してるんだから、俺の対策をしたがってるだろ。だから」
「あ......そっか」泉は深刻な顔でこくこくと頷いている。「友崎頭いいね」
「え、そ、そうか......?」褒められて面食らう。「......まあ、やるか」
「おっけー!」
空気も少しずつ和やかなものになってきて、女子の部屋で自分の一番好きなゲームをやっている、というリア充っぽい状況に、俺ってすごく進歩したのでは? という感慨を抱いていた。
「......ありえない......」
泉が愕然としている。
「なるほど......ということは課題は......」
「......課題はじゃないよ! なにいまの! 友崎ちょー動きキモかったんだけど!?」
ストックを四機にして戦い、俺はノーミス──どころか、ノーダメージでフィニッシュした。そのせいでさっきの和やかな雰囲 気は、なーにが進歩だとでも言わんばかりに吹っ飛んでいた。
「まあ、典型的な初心者の動きってやつだな。隙の大きい技をやたらとぶっ放すばっかりで、相手の動きが見えていない。駆け引きする必要もなくこちらはその隙に技を叩 き込める」
俺は心のメガネをクイッとしながら淡々と並べ立てる。
「え、なに? ちょっと友崎、気味悪いんだけど」
ドン引きしている泉を無視し、さらに続けてぶつぶつと分析を呟く。
「ストロング攻撃の入力とか場外からの復帰みたいな基礎中の基礎は意外とそこそこできていたから......問題は立ち回りだな......。必殺技を使いすぎだから通常技を多めにして......」
「ね、ねえ、なに? ホント不気味なんだけど!」
「泉!」
「はい!?」
泉はあぐらのままぴょんと跳ねて正座に座り直し、しゃんと背筋を張った。運動能力高いな。
「とりあえず、やってもらうことが決まった」
「え!? なに!?」
泉は目をキラキラ輝かせてこちらに身を乗り出す。こうして見るとやっぱり顔はかわいいし胸もでかいしいい匂 いはするしでやばい。けれど俺はアタファミのことになればそんなのは視界に入らないのだ。視界に入らないだけなのでいい匂いは感じる。
俺はトレーニングモードを選択し、キャラを操作してみせた。
「さっき泉が使ったキャラクター、これで普通にジャンプするとこうなる」
ファウンドが大きく跳ねる。泉は食い入るようにそれを黒目で追っている。
「けど、ジャンプボタンをごく短い間だけ押すとこうなる」
「......あ、低い」
ファウンドはさっきの三分の一程度の高度でぴょん、と跳ねた。
「これが小ジャンプ。アタファミってのは突き詰めると、相手との間合いと行動の隙 を調整して、どれだけ低いリスクで相手に攻撃できるかを競うゲームだ。だから、細かい間合いの調整ができるこういうテクニックを、百発百中で成功させる必要がある」
「ちょ、ちょっと待って!」
泉は立ち上がり、机のほうへ早足で向かった。
「いった! 痺れた!」足をもつれさせながらも引き出しを開け、そこからメモ帳とボールペンを取り出し、元の位置に戻った。「......そ、それで?」
泉はさっき俺が言ったことをメモるような動作を見せたあと、不安そうだが真剣な表情でこちらを見る。マジメだな。また正座になっているがそれは大丈夫なのだろうか。
「ちょっとやってみて」
「あ、う、うん......」
ものすごく慎重な手つきでコントローラーを受け取り、ジャンプボタンを短く押す泉。
「あれ?」
「......そうだよな」
ぴょ──ん、と、大きく跳ねるファウンド。
「ちょ、ちょっと待って! もう一回!」
ぴょ──ん、ぴょ──ん、ぴょん、ぴょ──ん、ぴょん。三割か四割くらいの成功率。
「そう、これ結構難しいんだよ。けど、これができないと、少なくとも中村と戦えるレベルで、ってなると、話にならない」
「話になら......? ......じゃ、じゃあ、練習する!」
「そうなんだけどな、違うんだよ、泉」
「え?」
舌がノッてきた。やっぱり俺の主戦場はアタファミよ。
「せっかくアタファミをプレイできる環境があるんだ。小ジャンプの練習に時間を使うくらいならもっと実践的な練習をしたほうがいい。そのほうが実力の上がり幅はでかい」
「そ、そっか。......え、じゃあこのちっちゃいジャンプはどうすればいいの?」
それはな、と前置きして、俺はこう話しだした。
「小ジャンプの練習もしたい。けれど、アタファミをプレイしているときには実践的な練習をしたほうが効率がいい。なら、どうするか。......その答えは一つだろ?」
そして俺は、あの見慣れた得意げな顔をイメージして表情を作りながら、こう言った。
「アタファミをプレイしていないときに練習すればいいんだ」
「......ど、どういうこと?」
「それはな」俺はポケットから、準備してきていたものを取り出す。「これを使うんだ」
「......ストップウォッチ?」泉は不思議そうに目を丸くしている。
「ああ。ちょっと見てくれ」俺はボタンを押し、計測を開始する。そして、ストップボタンをカチッ、と押す。「ほら、これ」
「......あれ? 止まってない。......カチッ、って言ったよね?」
「......ちょっと泉、やってみてくれ」
「う、うん」精密機械を扱うような丁寧 な手つきでストップウォッチを受け取った泉は、全身を上下に揺らしながらえい、とボタンを押して計測を開始し、そしてもう一度ボタンを押した。
「......あ、あれ? ......止まってる」
「そう。......このストップウォッチは『少しだけ』壊れててな」
もう一度ストップウォッチを受け取り、計測開始。そして、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。画面を泉に見せながら何度もボタンを押す。
「あれ? 止まらない?」
「そう。このストップウォッチはな、ストップボタンを押す時間が短すぎると、きちんとカチッと音がするまで押し込んでも、止まらないんだ」
「へ、へえ。そうなんだ? ......で、でも、これがなに?」
「簡単だ」誰 かのように人差し指をびしっと立てて。「これから毎日、通学中、移動中、テレビを見てるとき。つまり人と会ってるとき以外は常に、このストップウォッチを止めない練習をするのよ! そうすれば小ジャンプができるようになるわ!」
「ええ!?」
泉は驚いている。内容と口調両方にだろう。口調はあいつをイメージしすぎて間違えた。
「別のことをしているときはストップウォッチで練習。そして、家にいてアタファミの練習ができるときは、実践的な練習をする。これが一番効率がいい練習方法なんだ」
「た、たしかに......! てかなに今のオネエ口調!?」
とか言いながら真剣にメモしている泉。そのアホっぽさを見るに本当に理解しているのかどうかは微妙なところだが、けど表情はとにかくめっ ちゃ納得! って感じで笑いそうになる。口調に関しては「気にするな、間違えた」とだけ言ったら「う、うん」と納得してくれた。よし、素直な弟子は伸びる ぞ。
「で、その実践的な練習方法だが......これも簡単だ」泉はゴクリと息を飲み込む。「暗記だ」
「あ、暗記?」
「ああ。これを見てくれ」
俺はゲームモードをリプレイに設定し、スロットに差しこんである俺のメモリーカードから、ある対戦を選択し、再生を開始した。
「これは......あるトッププレイヤー同士の戦いの様子を保存したものなんだけどな」
「えーと、ななし? あとノー」
「まあそれはいい。本来この二人は持ちキャラがお互いともにファウンドなんだが、これはnanashiのほうが試しにフォクシーを使い、もう一方はファウンドを使っている戦いだ」
泉は眉をひそめながら驚く。
「......すご。さっきの友崎みたいに動きがキモい」
「ああ、このファウンドはめちゃくちゃ強いし動きに無駄がない。お......じゃなくてnanashiのように感覚でやっているのではなく、理詰めで操作を洗練させているんだ。だから参考にするには最適なんだ」
「......じゃあ、これを何回も見て、なんとなく覚えればいいってこと?」
「近いけど、少し違う」俺は泉にコントローラーを手渡す。「......なんとなく、じゃない。泉にはこの試合の流れを最初から最後まで完全に丸暗記して、このリプレイに合わせて完 璧にコントローラーを操作できるようになってもらう」
「......まじ?」
大マジだ。
「この試合は四ストック。お互いに隙をなかなか出さないから試合時間は十分強にも及ぶ。 だから暗記するとなったらかなり大変だが、だからこそこのゲームにおける重要テクニックはすべて網羅できる。お......じゃなくてnanashiは フォクシーの可能性を探るためにいろいろな戦法を試しているから、それに対策するファウンドの動きのバリエーションも多い」
「な、なるほど」
プスプスと脳の回路がショートする音でも聞こえてきそうだが、まだギリギリついてきていそうなので俺は続ける。
「ファウンドのほうの動きをすべて暗記できたら次はフォクシーのほうだ。両方とも暗記できたら、その時点で泉は中村 と戦えるレベルになっていると思う」
「ほ、ほんとに!?」
心から嬉しそうな笑みがこぼれる。これが恋する乙女の笑顔か。俺は頷いてやる。
「......でもさ」泉の表情が曇る。「私、この録画見ただけじゃ、どうやって操作するのかわからないんだけど。どの技がどれで出るとかわからないし......」
そのとおりだ。真似したくてもできない場合がある。......じゃあどうするか、簡単だ。
「ああ、だから言っただろ。──暗記だよ」
「え?」
腑に落ちていない様子の泉をよそに、俺はカバンからルーズリーフと筆箱を取り出し、そこに簡単な図と表を書き込んでいく。
「......これを暗記してもらう」
「なにこれ? ......技の、表?」
「そうだ」俺は表の欄を埋めながら説明を加えていく。「この『コマンド』ってのが、どの操作をしたらその技が出るのか、って意味だ。で、こ の棒人間がその技のときのキャラの体勢だ。青で囲われている部分が大体の攻撃範囲で、赤い部分が無敵判定の部分。『発生速度』ってのは、コマンドを押して から最初の攻撃範囲が出るまでの時間だ」
「えーと......?」早速ついてきてなさそう。「......F、って書いてあるけど、これは......?」
「これはフレームって意味だ。アタファミだと一フレームは1/60秒だな。まあ、少なければ少ないほど技が出るのが早くていいと考えてく れ。で、『与ダメージ』が相手に与えるダメージ量。『ふっ飛ばし率』はどのくらい相手を飛ばせるか。ダメージが大きいのに飛ばせる距離が少ない技があった り、その逆もあったりするから、この辺りは要注意だな」
「う......うん!」
言葉に勢いはあるが、完全に理解が追いついていないという表情だ。
「まあ、今はわからなくてもいい。リプレイの暗記と、この技の表の暗記を並行してやっていくうちに、だんだんとそれぞれの技の特性や、なん でそのタイミングでその技を出したのかがわかってくるはずだ。むしろ、それを考えながら暗記していって欲しい。......まあ、単純に暗記して体に覚え させるだけで実力は相当上がるからそれだけでもいいけどな」
「わ、わかった......」メモを終える泉。「......っていうかさ、友崎 はなに? この技の表全部、暗記してるわけ? なにも見ずにサラサラっと書いてたけど......」
「え? ああ、もちろん」という俺の言葉に泉は驚きの表情を見せたが、俺はさらに続けた。「フォクシーとファウンドだけじゃなくて、三十八キャラ全部の技を完璧に暗記してるぞ」
「......ま、まじ?」
「ああ。書いてみせようか?」
泉は驚きを通り越してドン引きの、そしてさらにそれも通りすぎて感心のような表情をした。
「ねえ、さっきから、すごいね?」泉が表情に疑問の色を浮かべながらこちらを見つめる。
「ん?」
「なんていうかさ。たしかにすごいけど......そんなにやっても、なんにもないじゃん? なんのためにそこまでするの?」
急になにを言い出したんだこいつは? オタクディス?
「は? なんのためって、なんだ? 別に俺はアタファミを、みんなと仲良くなるためにやってるわけでも、人に褒められるためにやってるわけでもないぞ?」
俺が当然のように言うと、え! と泉は目を丸くする。
「そうなの!? ゲームなのに!?」
「そりゃそうだろ。お前はゲームをなんだと思ってるんだ」
ああでも、そういや最近の子供って、友達作るためにゲームしたりするんだもんな。
「だってさ、そんだけ強かったら、引かれるじゃん。対戦になんないし、私もさっきドン引きしたし。そこそこ強いくらいなら、すげーってなるかもしんないけどさ。行きすぎると、強すぎてキモい、ってなるじゃん、みんなから。それ、いやじゃないの?」
妙に切実な顔。そしてそのとき。最近した似たような話が頭をよぎった。
みみみと一緒に帰ったときにした会話だ。これってたぶん、同じ話だよな。
「まったくいやじゃない......ってことはないけど。みんなから引かれることよりも、自分で強くなりたいって目標を決めたのにそれが達成できないことのほうが、よっぽどいやっていうか」
「へえ......そうなんだ?」
俺はその直感を確認するために、質問してみる。
「人の目が気にならないのか、ってことか?」
「そ、そう!」
やっぱり。みみみは、その場の空気や楽しさのために、自分を折ることを選んでいると言っていた。そしていまの話を聞く限り、少なからず泉 もみみみと似たタイプなのだろう。それが癖になっているというか、もう性格になっていると。ゲームで言えば同じ属性。
これは偶然同じというよりも、日南の言うとおり、そういう人は多いというだけなのだろう。貫ける自分の価値観がなく、どこか不安定な自分に疑問を抱いている、そんな状態。
「気にならなくはないけど......それより重要なものがあるというか......」
「でもさ、みんなから浮いてると、きつくない? 休み時間とか楽しくなくなっちゃうし、毎日楽しくないじゃん。実際私......友崎 が学校で楽しそうにしてるところ見たことないし」
「ほっとけ!」
「あははは!」
一瞬場の空気が緩む。けどこれってやっぱり、切実な問題、なんだよなあ。たぶん。
「でも、別に友達と笑うことが人生のすべてではないというか......」
みんなに合わせること、みんなに評価されること、浮かないこと、引かれないこと。そうやって周囲から排除されないように、集団に属すことができるように、誰 かの作った価値観──つまりそれが『空気』だって日南が言っていたっけ──に乗っかって生きる。それが泉にとって現状の幸せ、ということなのだろう。
「へ、へえ。すごいね。......私にはそうは思えそうにないなあ。なんだろこれ? 昔からこうで変えたくても変えられないんだよね......ってかごめん! なに語ってんだろうね私!? あーもうなしなし! とにかく、人にはいろいろいるってことで! 人生いろいろだね!」
泉は手をパタパタしながら空気を茶化してみせた。笑顔ながら目線はそっぽを向いていて、涙目だ。恥ずかしさもあるんだろうけど、なんというかその表情は、この問題が泉にとってとても大きな問題であることを表しているようでもあった。
そこで俺のなかで一つ、疑問が浮かんだ。みみみと泉。その二人の悩みは同じような内容なのに、どうして泉だけここまで深刻になっているのだろう?
みみみは、たまを守ってるんだよねーみたいな、楽しいほうがいいからこれでいいっしょ! みたいな、そんな軽さがあった。けど泉は今、こんなに迷っていて、深刻だ。
そこに一体、どんな違いがあるんだろうか。
それとも、みみみはそれを隠すのがうまい、というだけのことだろうか?
そして、そこで俺は思い出した。俺がみみみとの会話の後で漠然と覚えた違和感。
『みみみのほうが支えられてるように感じる』なんて根拠のない推測。
けど今、そんな直感がよぎった理由が少しわかったような気がした。
──やっぱりみみみのほうこそが、たまちゃんに支えられているのだと思う。
家庭科室での一件を思い出す。
『......さっき、みんみもありがとね』『......なにがー? 私はなんもしてないよ~』
あの関係性。
『花火はいつだって心が裸のままだからこそ、心の防御力も低いの。だから、誰 かが鎧になったり、誰かが飛んでくる攻撃の矛先を逸らしてあげないと、すぐに心がボロボロになっちゃう』
この日南の分析。俺は推測ながら、合点した。
たしかにたまちゃんはみみみに助けられている。けど、それ以上に。
たぶんみみみはたまちゃん、つまり自分の力で助けられる存在を守ることに、意味を見出 だしているのだ。俺がアタファミをやり続けられているように、日南 があらゆることで一位を目指し続けられているように、それが目的として、みみみの中で成立しているのだ。その目的に、結果に、自分にとって確かな意味を見出だせているのだ。だから、迷わないのだ。
けどたぶん、泉にはそれがない。自分が折れることに意味を見出だせていない。目的な く、ただ流されているだけなんだ。友達はたくさんいるんだろう。けど、みみみにとってのたまちゃんのような、自分を折るという行動に確かな意味を与えてく れるような存在が、きっと彼女にはいないのだ。だから不安定なまま迷って、自分に疑問を感じているのだ。
素人の分析、しかも根拠はここ一週間の出来事だけだけど、自分の経験からそう感じた。
でも俺は思う。これも経験から。人に補ってもらうんじゃなくて、自分の余りを分け与えるのでもなくて。自分で、自分自身の力で、自分自身を補うことだってできるんじゃないかって。
「別に、変えられないってことはないだろ」
「え?」
「だから、いまからでも、変えたいなら」
「え? 性格? 無理無理! なに言ってるの! 私もう十七になるんだよ? もう遅いって! もーいいからこの話終わり!」
とても作り笑顔には見えない完璧な作り笑顔で場を和 まそうとする泉。このやり方で教室という戦場を乗り切っているのであろうことが、その場を見ずともわかるような表情だ。
──そして俺はなんというか、以前のみみみとの会話、日南から聞いたたまちゃんの強さと弱さの話、そして今のこの、取り繕っているようで実は自分の本音を晒している泉の言葉を受けて、いろいろと自分なりに思うところがあった。そして同時に、日南のある言葉を思い出していた。
『会話っていうものは本来ね、「自分の頭のなかで考えたこと」を相手に伝え合うものなのよ』
『あなたはどうやら「自分の考えをそのまま喋る」のが得意みたいね』
もしそれが本当なら、もしそれが本当の会話だというならば、俺が今『自分で頭のなかで考えていたこと』を、泉に伝えてみよう。そんなことを思った。超難関ダンジョン、どうせ戦うなら自分の持てるすべてを出し切って全滅しよう。そんな感じだ。
「......俺も生まれてからこの年までずっと変わらない自分の性格というか、考え方みたいなものがあってさ」
「え?」
突然真面目 なトーンで語りだした俺に驚いたのか、その作り笑顔が少し崩れる。これ以上ないほどに真面目な『トーン』を作ろうと意識して喋りだしたのだ。それが多少なりとも、しかもリア充相手に効果を表したことに驚きながら、俺は話を進める。
「『人生はクソゲーだ』ってのが俺の考え方なんだよ。『人生』は理不尽。強キャラが得をし、弱キャラは搾取 される。攻略しがいのあるルールなんてものもない、ただの運ゲー。そんなものに自分の情熱と時間を注ぐ価値はないし、必要もない。そういう考え方でさ」
「う、うん......」泉の笑顔はだんだんとあっけにとられたような表情へ変わっていく。
「だから、人生っていうゲームで負けても──例えば教室で浮いても、彼女ができなくても、友達がいなくても、クラスでの地位が低くても、そ んなのはなんでもないってさ。だってクソゲーだから。で、逆にアタファミは神ゲーだから、人生で勝つことよりもアタファミで勝つことのほうが、よっぽど価 値があるし、すごいことだし、なにより俺にとっての本当の幸せだって、そういうふうな考えなんだよ、俺は。生まれてこのかた、いままでずっと、な」
泉は俺から視線を外さず、ただ黙っている。
「けど最近俺は、ある性格の悪い、けど俺と同じくらい強いゲーマーに出会ってな。で、そいつは、こう言うんだよ。『人生は神ゲーだ』って。 正直、なに言ってるんだこいつ、って思ったよ。同じゲーマーとして『人生』ってゲームのクソさに気が付かないなんて終わってる、とも思った。けどまあ、い ろいろと説得されて、とりあえず、信じてはいないけど、強いゲーマーの言うことだし、一応そいつの言うことを確かめてみる、ってことになった。──つま り、『人生』ってゲームを、ちょっと真剣にプレイしてみることになった」
泉はぱちくり、とまぶたを動かす。
「それでな、攻略法とか、努力の仕方とかを教わって、いろいろ自分なりにがんばってみるうちにな。なんというか、こんなことを思った。......いや、悔しいけど、ほぼ確信したんだよ」
そして俺は、目の前の泉に向けてというより、世界一努力家で、世界一自信家で、そして世界一性格の悪いどっかのゲーマーに向けるような気持ちで、こう言った。
「人生は神ゲー、かどうかはわからないけど、少なくとも絶対に、良ゲーではある! ってな」
泉はポカーンと口を開け、そして笑いながらこう言った。
「──『神ゲー』じゃないんだ?」
俺も、表情を作って、とかではなく自然と笑い、こう言った。
「ああ、まだそこまで確信したわけじゃないからな。俺は自分が思ってないことは言わない」
「......すごいね」
泉はまだ笑っている。
「......けど、いままで十六年以上『人生はクソゲー』だと思っていた俺が、ちょっとしたキッカケで、『人生は良ゲー』とまで思えるようになったんだ。これはすごい変化だろ」
「あはは。そう、だね。そうかな? あはは、おっかしー」
あははじゃない。俺の話はまだ終わっていない。
「だからな、関係ないんだ。何年変わらなかった性格だからとか、そんなのは、関係ない」
俺の言いたいことに気がついたのか、泉は驚いたように俺の瞳を見つめる。
「だから泉だってな、もし変わりたいんだったら、変われるはずなんだ」
そして俺は無理して泉と視線を合わせる。
「......いまからでも、絶対」
──こうして、超難関ダンジョンの挑戦結果は、勝ったとも負けたともつかない『諭しエンド』という予想外の結末となったのだった。
***
「そ、そうかな......?」
泉はキラキラした目でこっちを見つめている。自分が考えたことをすべて言い終わった俺は、会話のアドリブが利かないいつもの俺に戻っていた。
「うん、まあ、たぶん」
泉が吹き出す。
「あはは、なにそれ、頼りなっ」
「......わるかったな」
この家に来てからものすごく長時間自然と会話ができていたから、俺の会話技術は知らないあいだに向上していたのか、とか思ってもいたけれどなんのことはない、アタファミの話と、自分の頭で考えた話を説明するのはいままでどおりできるというだけだった。
「......でも......そうだね、やってみる」
「え?」
「アタファミの練習も......あと、周囲の目? 気にしないように変われるかとか、そういうのもやってみる。......やってみなきゃ、わかんないしね、たしかに」
「......そうか」
「うん......あ、そうそう」泉は携帯を取り出す。「連絡先、教えてよ。いろいろわかんないことあったら知りたいし」
「え!? いや、俺そんな周囲の目についてアドバイスなんて」
「いや、じゃなくてアタファミのほう」
「あ、ですよね......」
泉のなに言ってるのこいつ、という視線を受けながら連絡先を交換する。
「おっけー!」
「あ、おう、じゃあ......俺そろそろ帰るね」
アタファミについて教えることも教えたし。
「うん、あ、このソフト!」
「あ、いいよ、それサブロムだし、メモリーカードもバックアップした予備だから」
「さぶろむ? ばっくあ?」
「......いや、なんでもない、もう一個持ってるってこと」
「そーなんだ? でも......じゃあこれ貸してくれたら、ネット対戦できたんじゃ......?」
「あっ! ホントだ! ......ごめん」
「あはは。だよね! まあ、そのおかげでいろいろ話せたわけだしいっか!」
「はは」そう言ってくれると助かる。「それじゃ」
「あ、うん気をつけてね! あー待って......えーと、あのー」
「ん?」
「......あ、ううん! じゃあね!」
なんだろう? と疑問に思いながらも泉の家をあとにする。
そしてそれから五分もしないうちに、泉から短いメッセージが届いた。
『ありがとね』
絵文字もなにもないシンプルな五文字。さっき言おうとして言えなかったのはこの言葉なのだろうか。言えなかったからメールで伝えようってか。なんというか、リア充なのに親しみやすい部分もあるんだな。
そしてそんな内容だったから、それを見た俺は即、メッセージを送信することにした。
──日南に、こういうときどう返信すればいいの? という内容のメッセージを、だけど。
***
「装備していた剣が偶然ボスの弱点属性付きで、装備していた盾が偶然ボスの使う属性に耐性があった、くらいの奇跡ね」
土曜日。泉との件をメールで軽く報告したところ「会って報告しなさい」とのことで急遽今日集合となった。
「やっぱりすごい奇跡だよな、これ」
俺はテーブルの上の巨大パフェに辟易としながらそう言った。
「ていうかさ、思ったんだけど最近、いろいろ都合いいように起きすぎじゃないか? 泉の件もそうだし、菊池 さんの件もさ。日南、なんか裏で根回しでもしてないだろうな?」
ちなみに、集合場所はなぜか埼玉とは離れた都内の有名なパフェのお店で、いま日南は苺とバナナとメロンに大量のホイップと練乳がかかりにかかった極甘兵器を平然と食べている。
「なに言ってるのよ。私はなにもしてないわ。根回ししてるのはあなたよ」
「は? 俺?」
「そうよ。だって、移動教室のときにいつも図書室に行っていたり、優鈴に話しかけて風 香ちゃんにティッシュを貸してもらったりしなかったら、図書室で風香ちゃんに話しかけられることもなかったし、中 村修二 をアタファミでボコボコにしたり、一週間毎日優鈴に話しかけ続けたりしていなかったら、昨日、トボトボと歩いてくる優鈴にバッタリ会ったとしても、家に行くなんて展開にはなっていなかったわ。全部、あなたが行動したことで呼び寄せた結果よ」
あなたはこれにするといいわ、と指示されて頼んだ俺の分のパフェを、半分こという名目で八割がた食べながらそんなことを言う日南 。よく食うわ。俺は二割でもう限界。ちなみにそのパフェってのは桃とチーズホイップのミルクパフェとかいうやつ。
「まあ、それはそうだけど......」
「ずいぶんストイックなのね。あなたはもう少し自分のがんばりを自分で評価してもいいんじゃない? まあ、せずにモチベーションが保てるならいいけどね」
なんでこいつは口に物を含みながらこんなスラスラ綺麗に喋れるんだ。
「ある程度は......自分でも評価してるよ」
そう言うと日南は食べる手を止めた。
「......そう?」嬉しそうな表情だ。パフェが美味 しいからかもしれない。「ならいいのよ。やってみてどう? 自分のがんばりで人生を好転させるって、美しいと思わない?」
ニコニコと俺の目の中を覗き込む日南。俺は少しまごまごしながら目を逸らす。
「......まあな」
「へえ、あなたはそんなところに照れのポイントがあるのね」
「うるさい」
「まあいいわ。これで中くらいの目標にさらに近づいたってわけね」
「......話聞いてたか? 泉は中村が好きだからがんばってるんだぞ?」
「とはいえ、優鈴は中村修二とは昨日あなたとしたみたいな深い話はしていないはずだわ。それに、優鈴が持っていないものをあなたは持っていた。まあ、とはいえそれだけであなたのことを好きになるってことは、おそらくないわね。少なくとも今のままのあなたならね」
「今のままの?」
「あなたは多少は成長したとはいえ、それでもまだまだな部分も多いわ。けれど、長い目で見て、あなたが努力を続けて、成長し続けるなら、今年中にどうにかなる、って可能性は十分にあるわ」
「マジっすか......」
あの泉優鈴だぞ。リア充の。まあ、それが実は脆いものだったわけではあるのだが。
「ええ」パフェを完食しながら。「まあ可能性の話よ」
「よく食えるなそれ全部......」
「それで、決めたの? 風香ちゃんの件は」
「ああ、まあ、ちょっと迷ってる、けど、ほぼ決めた」
「......そう、まあ、その答えについては聞かないわ。実行してから報告して」と言いながら財布を取り出して。「もし、デートに誘ってみるなら、これを使うといいわ」
「......映画のチケット?」
「ええ。今度の日曜日の、マリー・ジョーンの試写会よ」
「試写会? ......映画に誘うのがいいってことか?」
「まあそうね。けどそれより、初めて遊びに誘うわけだし、あんまり強制しても印象が悪いってことよ。これなら、たまたま手に入って一緒に行 く人がいないから誘った、って建前ができるし、日にちが固定されてるから行きたくないなら用事がある、って言って断りやすい。それに、もし行くことになっ たら、映画ならほかのデートと比べて会話は少なくても大丈夫だし、映画を観たあとなら共通の話題もできるでしょ?」
「な、なるほど......」
「それに、もし相手があなたに本当に食いついているなら、その日が本当に無理でも、じゃあ別の日遊ぼう、って誘ってくる可能性が高いしね。とにかく、リスクが少ないのよ」
「なるほど......まあ、まだどうするか決めたわけじゃないから、一応もらっとく、ありがと」
「ええ」そして財布 を持ったまま立ち上がって。「ごめんなさい、今日はもう行くわ。私にもいろいろと用事があってね。ここの代金は私がほとんど食べたわけだし、わざわざ都内まで呼び出した交通費のこともあるし、私が出すわ」
いやいいよ、と言いそうになったが、こいつは一度言ったら聞かないだろうし、そうかわるいな、と素直に言っておいた。
***
その日の夜。俺はいつものように、日南に貸してもらっているICレコーダーで自分の声を録音しては聞いてを繰り返し、トーンの練習と復習をしていた。
そのとき、再生をしようとしたら操作を間違え、変なボタンを押してしまった。
「あ、やば、なにこれ? フォルダが切り替わったのか?」
ファイル数のところに「63」と表示されていたはずが、いまは「781」と表示されている。
わーどうしよう、どうやったら戻るんだ?
いろいろと試行錯誤してボタンを押していると、そのフォルダの音声ファイルの再生が始まってしまった。やばい! これ勝手に聞くのってよくないだろ! そう思い、慌 てて停止ボタンを押そうとしたが──聞こえてきた第一声に驚き、ついその手を止めてしまった。
『そんなんだから島野先輩にフラれんの! 年下はやっぱり頼りがいがな............違う』
え。これは。
『年下はやっぱり......んん! 年下......あーあーあー。......年下はやっぱり......あ!』
これは、家庭科室で、俺と、みみみと、たまちゃんを助けたときの。
『そんなんだから島野先輩にフラれんの! 年下はやっぱり頼りがいがないわ......って! ......これね。年下はやっぱり頼りがいがないわ、年下はやっぱり頼りがいがないわ......よし』
そこで録音が切れた。
人のプライバシーだから、さすがに別の録音までは聞く気は起きない。けれど、いまのだけで十分わかった。十分すぎるほど伝わった。あいつのなにが一番すごいのか。いままでだって薄々わかっていたけど、いまのでハッキリと実感できた。
あいつがすごいのは、ちゃんとすごくなろうとしているところだ。
***
翌週。月曜から火曜の二日間は、泉と休み時間になる度 にアタファミについて軽く会話を交わし、それを意外そうな目で周りから見られる、ということがあったくらいで、特に事件はなかった。泉は予想よりも断然早いペースで技の暗記をこなしていて、「この調子なら今週中には中 村と戦えるくらいにはなりそう」と伝えると、とても喜んでいた。いい弟子をとった。隣の席で話しやすいし。
日南との作戦会議でも話したことは少なく、いままで通り姿勢と表情、トーンの練習、そして話題の暗記はぬかりなく続けること、泉や菊 池さんとできるだけ会話をするようにすること、くらいだった。
そして水曜日。今日この日が、日南と会って以降、最も激動の一日となるのだった。
今日は移動教室がある。つまり、その前に図書室に行くと、菊池さんと一対一になる。
今日も朝から何度か泉と話し、アタファミについていろいろと確認したあと、移動教室前の休み時間。いつものように、けど実際はいつもとは違う心境で図書室に向かう。
図書室の戸を開けるとそこにはもう菊池さんがいた。菊池さんはこちらに気づくとニコ、と上品な春の風のような笑顔を見せる。美人だ。そし てス、と視線を読んでいた本に戻す。まだ向こうからアンディだっけ? の話をしてくれたら楽だったのだが、これは俺から話しかけないといけないようだ。 びっくりさせないよう適度に足音を鳴らしながら、菊池さんに近づく。すぐ近くまで行くと、菊池さんは聖なる龍みたいな美しすぎる動作でこちらに振り向いた。
「ん......? どうしたんですか......?」
相変わらず鼓膜に天使の涙を一滴ぽとりと落としたかのように染み入ってくる声。
「あ、ちょっと話が......」と言いながら俺は菊池さんの隣の椅子 を引き、適度に距離をとった位置に調節してから座った。俺みたいな生粋 の非リアは、美人の聖なるオーラを至近距離で浴びると体が光に溶けて蒸発してしまうのだ。
「どうしました......?」
「えーっとね」本当は真っ黒のはずなのになぜかエルフの魔力のこもった深緑色に見えるその瞳で見つめられると、決意が揺らぎそうになる。
「こないだの、アンディ? の話なんだけどさ......」
「あ、うん......!」
菊池さんの目にさらに光が宿る。けれど、俺は意を決する。
「実はさ......」俺が決めた答えを、単刀直入に。「その作者好きっていうの、嘘なんだ。っていうか......その人の本読んだことすらないんだ!」
可愛らしく首を傾げた白いオコジョ、じゃなくて菊池さんは、目をぱちくりとさせた。
「えっと......?」
俺は菊池さんが妖精や天使のような雰囲 気だけではなく、幼い子供のように純粋な雰囲気すら出せることに驚きつつも、こう続けた。
「ホントなんだよ」
「え......? けれど、実際読んで......」
そりゃ当然の疑問だ。毎回図書室で本を開いていたらそりゃそういうふうに思う。
けど違うんだ。それはさ。
──俺は、自分はアタファミがめちゃくちゃ好きであるということ、だから暇な時間はそれに充 てているということ、図書室に来ているのは移動教室に早く行ったときの空気が嫌いだったからだということ、......そして、本は読むふりをしていただけで、実際にはアタファミの戦法を検討していたのだということを告げた。
「だからさ、俺は......そのアンディって人好きでもなんでもないし、むしろ読んだことない。ただ、なんて説明すればいいのかわからなくて、その場をやり過ごしちゃったんだ」
菊池さんは、責めるでも許すでもないような、ただ純粋に残念だなあというような表情。
「そう、なんですね? でも、おまじないは......?」
「おまじない......? ああ! エビ、なんとか?」
「うん......あのとき読んでた本にたくさん出てくる......さよなら、また会いましょう、っておまじない......」
「あ、たくさん出てくるんだ? でもだとしたらそうだよ、あの時開いてたページにも書いてあったから、場を乗り切ろうと思って、ついとっさに言っちゃったんだ」
「そうなんですね......」
「うん、だからさ、あの、書いた小説を読ませてくれる約束も、違うかな、って。勘違い......っていうか、俺の嘘から始まった約束だし......。ごめん」
「そっか......そうなんですね」そしてふ、と息を漏らす。「気にしないでください」
俺の罪の意識を洗い流してくれるかのような赦しの微笑 みをくれる菊池さん。俺が調子に乗っているだけでなければ、どこか寂しそうにも見える。
そして、ここからどうするか、だ。ギリギリまで決めていなかった。謝った上で、映画に誘うのか、それとも誘わないのか。内ポケットに入れてある試写会のチケットに軽く触れる。
「......けどさ」俺は心臓のバクバクとした鼓動を感じながら、こう切り出した。「また図書室には来ると思うから......今度は、 好きな作家とか関係なく、普通に話したいな、って。その、ミッシェル・アンディって作家の本も、読んでみようかな、とか、思ってるし。......よけれ ば、どうかな?」
俺のその提案に、菊池さんは長いまつげを揺らしながらぱちぱち、とまばたきをしたあと、いつもみたいなファンタジーのようではない、年相応の若い女の子のような雰囲 気で、楽しそうに笑った。
「......あははは! 友崎くん。ミッシェルじゃなくて、マイケルですよ? ......本当に、読んでないんですね?」
「あ......。マイケルか。えーと、あはは」
「ふふ」
「で、でも、そんな感じ。えーと、また来て......い、いいかな?」
すると菊池さんは、木漏れ日みたいに温かくて人間味のある笑顔で、こう言った。
「......もちろん、いいよ!」
その表情に思わず照れてしまった俺は、よかった、それじゃ、とだけ言って、図書室を出た。
そして早足で家庭科室へと向かう。
あの場で映画に誘うのはずるいと思った。まだ嘘だって言ったばっかりで、菊池 さんはたぶん、好きな作家を共有している、みたいなテンションの昂 ぶりの余韻を引きずっていたと思う。だとしたら、誘うのは、そういうのが全部なくなったあとの、フラットな状態になってからじゃないとずるいと思った。誠実じゃないと思った。だからこれでよかった、と思うのだ。
そんなふうに菊池さんの件に自分なりにけりをつけ、スッキリした気持ちでその日一日を過ごしていた。泉とは休み時間になる度 に軽くアタファミについて話してから、泉は窓際後ろのリア充グループへと合流、俺はそのまま自分の席でぼっち、という流れがお決まりになっていた。こうなってくると、自分でも進歩を感じるし、自信もついてくる。
──そんなときに限って事件は起きるのだ。
***
「友崎」
「え?」
放課後。あまり呼ばれ慣れない声に名を呼ばれる。
見ると、中村と仲のいい──竹井 が腕を組んで俺を睨んでいる。隣では水沢 が無表情で観察するような視線をこちらへ向けている。家庭科室のとき中村とつるんでいた二人だ。
「ちょっと来い」
「はい?」
なんだこれ。呼び出しってやつ? こいつらがってことは中村が絡んでいると考えてほぼ間違いないだろう。けど、なんだ? アタファミの件については日南 が風船から空気を抜いてくれたという話だし、俺がなにか中村の気に障 るようなことをしただろうか? それとも別にネガティブな呼び出しではない? いやいや、この口調でんなわけあるか。
「いいから来い、こっち」
ごちゃごちゃ言ってもしょうがないだろうし、ただついていくしかなさそうだ。この状況、日南は見ているだろうか、と教室を見渡したが、見当たらない。......先に第二被服室に向かっているのだろう。つまりこの突然のボス戦、自力でがんばるしかないみたいだ。
案内、というか連行されて辿 り着いた先は職員室の斜め向かい、過去に校長室があったらしいが今は使われていない空き部屋だ。校長室だったときの名残で、かなり古びているが使えないこともないソファーや机、小さいブラウン管のテレビなどが設置してある。
そして、そこには中村のほかにリア充グループの男子数人がいた。
「......えーと?」
竹井と水沢も入れて合計六人。なんだこれは。俺はいまからリンチでもされるのか。
「おー友崎」
中村だ。普通に名前を呼ばれるだけで威圧感を感じる。思わず目を逸らすと、その視界に見慣れたものが映った。え。あのゲーム機は。
「え、待って。アタファミ、ってこと?」
思わぬ展開に混乱する。え? もしかしてリベンジ?
「そーだよ。いいからそこに座れ」
促されるままに用意してあるコントローラーの前に座ると、ゲーム機の電源が入れられる。テレビの画面に見慣れたオープニング映像が流れる。
「ちょ、ちょっと待ってなになに」
中村の取り巻きたちは混乱する俺を無視して、俺と中村から離れ、部屋のやや後方へ並んだ。
「思ってるとおりだよ」
低く響く声で中村にそう告げられる。つまり。
「リベンジ、と」
中村は小さく舌打ちし、その言い方が調子乗ってんだよ、と吐き捨てる。
「いや、でもさ」
俺は後ろを振り返る。ギャラリーがいる。つまり、これからここで起こることすべてに証人がいる。前に戦ったとき、俺はハッキリ言って圧勝すぎるほどに圧勝した。しかし、それがどれだけ大差だったのかを知っているのはおそらく俺と中 村と日南だけだ。つまり、僅 差で、くらいに思われていてもなにも不自然じゃないのだ。
けど、ここでおこなわれる対決は違う。その内容の詳細までもが、完全に目撃される。
たしかに中村はこの数週間で練習を積んだのかもしれない。あのくらいの実力からさらに本気で練習を積めば、ここにいる取り巻きたち全員に ノーミスクリアを決めるくらいはたやすいだろう。けれど、それとはわけが違う。だって俺は強すぎる。この短期間でいくら練習を積んだとしてもそんなのは雀の 涙だ。それどころか、あのときからの上達の幅でも、俺のほうが大きいという自信すらある。仮に本気の本気、リスクを最大限に回避してどれだけ長時間のバト ルになってもいいという覚悟のもとで戦ったならば、ノーダメージクリアすら視野に入る。それをしないとしてもノーミスクリアはたやすいだろう。
だから、こんなのはやるべきじゃない。恥をかくというレベルじゃない。俺が手加減できればいいのだが、俺はアタファミで手加減なんて絶対にできない。だから、だめだ。
「やめたほうがいいって、絶対」
「お前......マジ調子乗んな」
俺はギャラリーを見渡しながらいまのセリフを言ったため、おそらく「恥かいちゃうよ?」みたいな意味が伝わったのだと思う。さらに怒りを買ってしまった。そりゃそうだ。でもこれをオブラートに包む言い方なんて俺にはムリムリまだ早いって。
「いや、そうじゃなくて、本気で。たしかに毎日練習してたらしいけどさ......それでも」
とまで言いかけて止めた。それでも実力差は埋まらないよ、なんてこと言ったらさらに怒りを買うに違いない。もうほぼ言ったから遅いかもしれないけど。
......と思っていたら、予想外の返答が来た。
「練習してたらしいって、誰に聞いたんだよ?」
いままでで一番威圧的な言い方だ。え? そこ?
「え、いや」俺は隠す必要もないので言う。「泉に」
「......やっぱりな」中村は眉間にシワを寄せる。「最近仲いいみたいだな?」
「え?」
......ちょっと待て。まあ、まだ決めつけるには早いけど、待て。リベンジにしては早すぎるし、なにか他のことで怒ったからその勢いで呼び出したんじゃないかとは思っていたが、ひょっとしてこいつ......。
「なんでお前が優鈴と仲良くなってんだよ、おかしいだろ」
やっぱりこれはそうだ。つーかよくギャラリーいるのにそんなこと堂々と言えたな。にしてもおいおいふざけんなよ。あのな、俺が最近泉とよく喋るのはな、泉がお前に相手をして欲しくて、だからがんばってアタファミの練習をしているからなんだよ。俺は泉が『お前のために』がんばるのを手伝うっていう、キューピッドポジションなんだよ。
なんでその俺が、泉と仲いいことへのヤキモチで喧嘩をふっかけられなきゃいけないんだよ。
「いや、仲いいとかじゃ」
「じゃあなんだよ?」
だからといって、真相を言うわけにはいかない。そんな、恋のためにがんばっている女の子のことを、自己保身のために相手にバラすなんて最悪だ。恋愛経験のない俺にだってわかる。だったら、ここは俺が自分の力で乗り切るしかない。
「いや、違うし、だとしても、ここで戦うのは違うだろ、もっとどっちかの家とかでさ」
「家......? そうだよ......お前、優鈴の家に行ってたらしいな? 目撃談があんだよ」
まじかよここでヤブヘビ? ダメだ。そりゃ怒るわ。ゲームでボコボコにしてきてクソみたいに調子乗ったことを言いまくってきたキモオタ が、今度は自分の好きな女、かどうかは定かじゃないけどまあそういう女の子と仲良くなって、しまいには家に上がり込んでいたとなったら、こりゃダメだ。怒 る。これは俺に回避できる問題じゃない。
「あー、えっとそれには事情があるんだけど......」
「......なんだよ?」
「......いや、ごめん、言えません......」
嘘も思いつきません......。言えない、というのをこう、『泉との秘密』みたいに捉えたのか知らないけど、中 村は余計逆上し「いいからやるぞ」と強くコントローラーを握った。
けれど俺は、「でも......」「なんだよ」「いや......」「言い方が気持ち悪いんだよ」というふうに得意のキモさで時間を稼ぎ、なんとか状況が変わらないものかと粘っていた。願わくば日南。俺が第二被服室に現れないのを不審に思い、情報を集め、ここに馳 せ参じるくらいのことはあいつにはたやすいはずだ。いや時間さえ稼げば確実にくる。あいつはそういうやつだ。
俺がそう祈りを捧げながら無意味な問答を繰り返していると、部屋の戸がバン、と開け放たれた。神よ!
「おじゃましまー、って、え!? 友崎!?」
間が悪すぎワロタ、とはこのことだろう。泉がやってきてしまった。信じられない。
「優鈴、なんだよ、来んなっていっただろ」
「あ、ごめん、修二、いや、そろそろ、相手に......なる......かなって......」
この教室に漂うただならぬ空気を感じ取ったのか、みるみるしぼんでいく声。中村、ごめん。これ、お前にとって最悪の状況だよな。俺が泉に 今週中に相手になるかもって言ったのと、いま無駄に時間を稼いだせいだ。だからもう本当に全部俺のせいだ。なんならさっさとやればよかった。泉に見られた 状態では、もう引くなんてできないだろう。どうにか帰せないだろうか。
「まあいいや、お前、見とけよ、いまからやるから」
「え、うん......!? わかった!」
あーあ。やっちゃった。もうダメだ。泉は後ろに並ぶ取り巻きたちに交ざった。
「優鈴~だから無駄だって~、早く帰るよ~」
声とともに再び開かれたドアから入ってきたのは、泉の話に出てきた紺野 エリカと、その取り巻きたちだ。脱色された明るい髪に短いスカート。その中でも紺野エリカがひときわ派手に目立っている。
「あれ? なにこれ?」と取り巻きのうちの一人。「いまから友崎と対戦するんだよ、見てけよ」と中村 。あーあ。紺野軍団も取り巻きに交ざる。なんだよこれ。リアル充実オールスター大激闘アタックファミリーズってか。なんでそんな自殺行為するかね。もう知らねーぞ。
「もういいだろ友崎。いまさら逃げられねーから」
「はあ......」俺は覚悟を決めた。言っとくけど、俺はアタファミのことになると手加減ができなくなるんだよ。「......逃げられないのはお前だから、中村」
あらゆる面でな。
***
おそらく今まで中村しか見たことがないであろう俺の調子に乗った啖呵 にギャラリーが沸く。「ひゅー!」「言うね~!」「あれ友崎だよね!?」「盛り上がってまいりました!」。うるさいうるさい。もう知らねー。やるしかないならやる。美学に従って本気でやる。アタファミに関することで俺に喧 嘩を 売った自分を憎め憎め。俺はアタファミの舞台では最強キャラなんだよ。「相変わらず言うなぁ? 友崎ぃ?」。中村がなんかごちゃごちゃ言いながらあからさ まに怒っている。知らん知らん。殴るなら殴れ。それでその場が終わるならそれはそれでいいよ。でもやるならやる。それだけ。
「そういうのいいから。やるの? やらないの?」
俺は中村のほうも見ずにコントローラーを拾い上げながら冷たい調子でそう吐き捨てる。もういい。対戦さえ始まったらあとはこれまでの経験に身を任せるだけだ。川の上流から桶に 乗り、座禅を組んだまま河口まで流れきる。そこに余計な論理はいらない。ただこれまでの自分の経験が、自動的な感覚で筋道を導き出し正解へと流してくれ る。「やるにきまってんだろ。さっさとキャラを選べ」。そんな言葉が聞こえたか聞こえていないか、俺はいつもの調子でいつものキャラクターを選んでいる。 チッ。近い位置から舌打ちのような破裂音が聞こえる。あっそ。中村がキャラを選択する。相変わらずフォクシーね。やろやろ。
戦闘開始、その瞬間すでに中村へと走りだしている俺。それに合わせるように軽く跳躍し、遠距離弾を二発叩 きこんでくる中村。小ジャンプの着地と遠距離攻撃を組み合わせて発射後の隙をなくすテクニック。以前の中 村は使えていなかった小技だ。練習したんだろう。けどそんなことで俺の流れは止まらない。戸惑いもなく焦りもなく油断もなく、ただ自分の知っている正しい流れにファウンドを流していく。駆け引きの時間だ。
お前が練習でなにができるようになったかなんて知らない関係ない。そりゃお前にとってはすごく大層な出来事なのかもしれないけれど、俺か らしたらないことと同じ。アフリカのどっかの国の変なアリに、羽根が生えて飛べるようになったらしいよ。へーそうなんだ。それと同じ。突進する俺に中村が 仕掛けてきた駆け引きを、技術と経験でぶっ潰す。瞬 により近づくタイミングを五回ずらした。ガチャチャチャチャチャ。この知識外の滅茶苦茶な動きに対応できるはずがない。隙だらけの中村を掴み、即死までコンボを繋ぐ。まず一機。
「なにいまの?」「動きキモっ」「ないわー」「え?」。ギャラリーが戸惑っている。残念だけどこの試合は、いまのがあと三回あって終わりだよ。たださすがに瞬の五連発は不意打ちの魅 せ技、二度は通用しない。だから次の正しい道のりは自 ずとさっきと別のものが見えてくる。ピカーって感じで筋が光る。七~八本あるけどどれにしよう、まあこれでいいか。
ダッシュ攻撃をわざと少し遅れたタイミングで繰り出し、中村のガードをほんの少し通り過ぎた地点で止まる。隙だらけと踏んだ中村はその場 で掴みを出す。残念。通り過ぎているから俺はお前の真後ろにいるよ。投げをスカして隙だらけの中村を振り向き掴む。投げ。コンボ。二機目。
「え?」「抜けられないの?」「掴まれたら終わり?」「なにそれせこっ」「ないわ」。抜けられるよ。上手 ければね。焦ってきた中村は操作の精度が落ちてきた。これなら正しい道のりはいくらでも見つかる。ピカピカピカーッ。眩 しい眩しい。何本あるんだよ道筋。じゃあまっすぐ行こうか。迷ってたら目が痛くなるしどれ選んでも中村が撃墜されるという結果は変わらないし。
シンプルにダッシュ攻撃。ガードされて掴まれる。「おお」「掴んだ!」。ギャラリーが沸く。中村の攻撃が初めて俺に通ったのだ。中村はコ ンボに繋げるつもりなんだろうけど、知らないんだろうね。たしかにフォクシーは蓄積ダメージがない状態のファウンドに吹っ飛び方向をずらされなければ投げ からコンボを繋げられるけど、ずらされたら逆にフォクシーが隙を晒してコンボを決められてしまうんだよ。まあ、練習相手にそれをしてくる奴 がいなければ気がつきようがないか。恨むべきは環境。
ドカーン三機目。
「......」「......」「......」。ギャラリーが沈黙する。そりゃそうだ。俺は今まで投げから即死までコンボを繋いで二機も落としてきた。しかしついに逆に中村が友 崎 を掴んだぞ! と思った次の瞬間中村が撃墜されていたのだから。もうこうなってしまったらあとはただのゴミ処理、簡単、流れ作業。俺の目の前にはもう光の筋が繋がり大きな広場、どの方向へ歩き出しても目的地へ辿 り着く。飛ぶような感覚で地面を蹴 る。体が浮く、宙へ舞う。下を見ると広場の右の先からとてつもなく複雑な形の筋が伸びているのが見えた。どこへ向かっても到達地点は同じだが、どうせなら練習だ。あの道筋をたどってみよう。
俺は中村のほうへと走り寄り、小ジャンプ。空後A。右へ瞬 。横A。小ジャンプ。空上A。着地。ジャンプ。B少溜め空中発射。着地。相手着地地点にダッシュ掴 み。下投げ。ジャンプ。空前A。空前A。空中ジャンプ。下B。着地。B溜め。ジャンプ。空中ジャンプ。下B。上B。着地。小ジャンプ。B発射。ダッシュ。崖 降り。空前A。空中ジャンプ。下B。
四機目。
ゲームセット。
***
はあ。やってしまった。このプレッシャーのかかる状況を克服するために本気で集中してやってしまったため、余計ボコボコにしてしまった。
「......くそ」
中村は歯を食いしばり、苦渋 に耐える表情でつぶやいた。それを見守るギャラリーは、完全に言葉を失っている。無理もない。四機制で一機も落とせずに敗北。こんなの実力の差と以外なんと呼びようもない。
俺が一機目を撃墜したあたりでは「うますぎてキモーい」という煽りもあったのだが、おそらく中村があまりにも真剣そのものだったからであろう、ギャラリーは自然と沈黙していった。
後ろを振り向くと、紺野エリカ以外誰 もこちらを向いていない。気まずそうにお互いに見合ったり、ごまかすような笑みを浮かべたり、俯 いたりしている。ああ、もうごめんって。でもこうするしかないだろ。俺だってやりたくなかったんだよ!
その場の空気のあまりの居づらさを感じ、「えーと、じゃあ、これで」とだけ言って部屋を出ようとしたそのとき、予想外の声に引き止められた。
「......もう一回」
その言葉を発したのはほかでもない、中村だった。
──なに言ってるんだ、こいつ? もう一回? いまの試合内容で? いや、意味ないだろ。無理だって。誇張抜きで、百回やっても勝てないよ。そんなのは本当に意味がないだろ。
「いや、でも......」
「もう一回、って言ってんだろ、早くコントローラー握れよ」
「......えーと、キャラは変え」
「そのままでいい。俺もこのままやる。キャラのせいにしたいわけじゃねえ。馬鹿にすんな」
「......わかった」
中村はチラリともギャラリーのほうに振り向かず、ただゲーム画面を見つめたままそう言った。
ギャラリーたちは、あっけにとられたような、ほんの少し恐怖すら感じているような表情で中村の後ろ姿を見つめている。
しかたなく、俺はコントローラーを握った。
一戦目のような思考加速状態ではなかったため、さっきよりも少し多めにダメージを食らいはしたが、また一機も落とされずに勝利した。
いや、そりゃそうだ。ギャラリーのほうを振り返ると、みんな俯いている中に日南 がいた。うお。どうやら二戦目の途中でこっそり入ってきたようだ。隣にいる泉と小声で会話している。おそらく状況を教えてもらっているのだろう。
しかしこの状況、日南にすら、もうどうしようもないのではないか。俺か中村のどちらかが悪者になって、ひと通り断罪でも受けない限り収束しないように見える。
泉がひと通り話し終えると、日南はめちゃくちゃ難しそうな顔をして、そして俺を見て、首を振った。
これがなにを意味するのか正確なところはわからないけれど、ネガティブな意味であることはたしかだ。つまり、おそらくここから場が大きく好転することはない。
「もう一回」
......信じられなかった。
いま、リア充の男女主要メンバーがほぼ全員集合している中で、わざわざリベンジということを宣言した挙句、一機も落とせないまま二連敗しているのに。なんで心が折れてないんだ? どういう心境だよお前? なんでまだ戦おうとする?
「早くしろ」
こちらの意見なんて一切聞きそうもない。
「......わかった」
──そしてまた、ノーミスで勝利した。
空気がどんどん重くなっていく。俺ですら感じるのだから空気に敏感なリア充たちは窒息 する思いだろう。振り返ってみると、紺野 エリカと日南を除く全員が、普通なら過剰と思えるほどに俯いていた。日南は無表情で、紺野エリカは厳しい表情でこちらを見ている。
「......あたし、今日、予備校あるから......」
そう言って紺野エリカの取り巻きの一人が帰ろうとする。
「あ、あたしも~......」
それに追随して、もう一人が声を上げる。
「嘘つくな。お前ら予備校木曜日だろうが」
そちらを振り返らず、けれど確かに威圧的な口調でそう言い放つ中村。
「あー、まあ」
「あははー......」
そして。
「もう一回」
なあ、嘘だろ。なんでだよ、中村。
けど、説得のしようがない。
「......わかった」
──同じく、ノーミスで勝利。
──しかし。
もう一回、もう一回、もう一回。そんなことをあと三度も繰り返した。その度にどんどん空気は重くなり、しかし中村は一切態度を変えない。そしてその三度目、俺はついにノーミスではなく、一機落とされた上での勝利となった。誓って言うが、手加減はしていない。
しかし、よし。これで中村の溜飲 も下がったはずだ。たしかに、連戦して一勝どころか一機も落とせないというのはプライドに傷がつくというレベルではないだろう。だから......。
「中村、これで......」
「もう一回」
中村はゲーム画面だけをまっすぐに見つめている。
「いや、もう」
「一機落とせて満足とでも思ってんのか? なめるなっつっただろ。もう一回だ」
連戦が始まってから初めて中村はゲーム画面から目をそらし、俺の目を見る。一縷 の迷いも感じない目だ。闘志も宿っている。ただのくだらない意地ってわけでもなさそうだ。
「......わかっ」
「修二さぁ~、いい加減あきらめたら? そろそろ、キモいんだけど」
俺が後ろを振り返ると、声の主は紺野エリカだった。
「つーかなに? ゲームごときにマジになっちゃってさ~。くだらないんだけど」
中村が後ろを振り返り、紺野を視線で突き刺す。
「......お前には関係ないだろ」
「はぁ? 帰ろうとした人間引き止めてまで見せといて関係ないとかマジ? 完全に頭イっちゃってるとしか思えないんだけどキモ~」
中村の威圧的な凄みを意にも介さず、馬鹿にしたように笑いながら言う紺野。
「お前のことを止めた覚えないけど? なに付きまとってきてんのエリカ、キモいわ」
紺野エリカの顔がゆがむ。
「へぇ~。偉そうなこと言うようになったねぇ。なに、こないだ私が告ったから調子乗っちゃった? マジキモいんだけど。勘違いおつかれ。別にクラスで一番目立ってるから付き合えたらラッキーと思って告っただけだから。こんなキモいと知ってたら告ってない告ってない~」
ヘラヘラと、それでいて心を突き刺すような言い方だ。
「へー。別にお前がどう思ってようが関係ないから。どっちにしろ俺はお前に興味ないだけ」
紺野エリカが不快そうに人差し指で頭をかく。
「つーか何回やってもお前じゃ勝てないから。無駄すぎて見てて笑える。ウチらが見てもそれがわかるって、よっぽど弱いんだね修二 ?」
「......っ!」
中村が初めて言いよどむ。その隙をついてだろうか、
「だよねえ? 美佳?」と取り巻きへ同意を求める。えげつないタイミングだ。
「え、うん、ほんとキモい、っていうか普通に家帰して欲しいんだけど」
心底バカにした口調。
「だよねー。......それだけ?」
さらなる言葉を煽る紺野エリカ。すげえやり方だなおい。
「え、いや、えーと、つーか普通に中村ダサすぎ。死んだほうがいいわマジで」
「ホントだよね~」と嬉しそうに紺野エリカ。
そしてそれを機に、紺野エリカの取り巻きたちも中村への攻撃に加わる。泉は沈黙している。
「つか覚えてる? リベンジするから見てろ、って言ってたんだよこいつ? やばくない?」
「やばいやばい! それでこのザマとか普通にない! てか時間返して欲しいんだけど!」
「だってさ修二。普通にお前キモいし、弱いから。お前は、負・け・た・の。わかる?」
紺野エリカの罵倒の切れ味がひときわすごい。
「お前らに関係ねえだろ、興味ないんだったら帰れよ、さっさと」
中村もさすがに語勢が弱まっている。
「関係ないとかウケるんですけど! つか、あれ? 中村涙目じゃね!?」
「ほんとだ! え、なになに! 泣くの!? いい年して!?」
「えー! ゲームに負けて泣くとか何歳!? 幼稚園児じゃないんだからさ~! てかさ、お前、最近放課後ずーっとここで練習してたらしいね。あははは、ばっかみたーい。それでこのザマ? 努力ぜーんぶ無駄だったね? あー恥ずかしー。しょーもないゲームだね」
そう言い放ち、行こ、と取り巻きを連れて外に出ようとする紺野。それを見た日南の唇 がほんの少し動いたのを俺だけが見ていた。
──しかし、それよりも一瞬早く、怒りに満ちた男の声が、この部屋中に響いていた。
「待てよ、いまなんて言った?」
それまで無表情だった日南が、いままで見た中で一番驚いた表情をしている。無理もない。
だっていまの言葉を口走ったのは、中村でもその取り巻きでもなく、俺だったのだから。
「は?」
地位の低い人間から噛みつかれた紺野は、至極不機嫌そうに俺を睨 む。
「......なに? 友崎? なに、気に食わなかった? へー。キモ」
雑魚をあしらうような軽い口調で俺を一蹴 する。
「キモ、とかお前らはそれしか言えねーのか?」
俺は睨みを効かせようとがんばりながら啖呵を切る。
「は? 言えるし~! なにその口調気持ち悪いんですけど~!」
「てかなに友崎、調子乗ってね? やばいキモすぎ~!」
「つーかなに? なんでお前がこいつのことかばうわけ? マジで意味不明」
「ホントだよね~! つーか全然しゃべんないし、ウケる~!」
「キモい奴はキモい奴同士つるむんじゃね? マジ入りたくないわー!」
その言葉の一つ一つに込められた悪意が俺を突き刺す。こんなふうに噛みついて見せたけど、手は震えている。
「くだらないな。まあお前らにはわからないんだろうな」
「は?」
トーンの練習、表情の練習、姿勢の練習、しゃべり方の練習。俺はそれをやり始めたことで、初めてわかった。こいつらは、それらの面において、俺より遥 か格上の存在だ。日々の中で、その技術が鍛錬 されている。俺なんかとは比べものにならないくらい、それらを自由に操っている。そしてこいつらも、俺が格下だってことになんてとうに気づいて、見下している。だから俺の言葉なんて、内容に関係なく、届かないだろう。
「俺はな」ゆっくりとしゃべり始める。できるかぎり最大の、真剣なトーンで。「勝負に負けたのを、状況とか、キャラとか、そういうののせいにして、自分では努力せずに言い訳する人間が一番嫌いなんだよ」
「は?」
「だからなに?」
「なに語ってんの?」
「うるせえ!」俺は精一杯の大声を出した。「......前に俺が中村に勝ったとき、中村は言い訳をしたんだ。キャラのせいだって。こいつ はなんて下らないやつなんだろうと思った。けどな、いまはどうだ? こんな大勢の前で! こんなに惨敗して! それでも言い訳の一つもせず何回も何回も 戦って! ついに俺から一機落とすという一つの結果を掴みとった! わからないんだろうな、お前らにはこのことのすごさが! 偉大さが!」
俺にだって許せないことぐらい、ある。
だから俺は、紺野エリカが発したあの言葉だけは、絶対に、なにに変えても、許さない。
「は?」
「なにそれ?」
「つーか勝たなきゃ意味ないでしょ」
「中村はなあ! 言い訳する人間じゃ、なくなったんだよ!」
そして俺は、すぅっと息を吸い込み、こう叫んだ。
「けどこの際、そんなことはどうだっていい!」
その本気の意味不明さに取り巻きたちが言葉を失った。
そして紺野エリカの目を直視してやる。睨み返してくる紺野エリカ。怖いけど俺は絶対に目を逸らさない。
これは俺の意地だ。
「紺野。さっきお前は言ったな。『しょーもないゲームだね』って」
この戦いがレベルも装備も不十分で、しかもそれを補う対策すらもない、敗北が見え透いている戦いだろうと、これだけは絶対に譲りたくない。こいつらは知らないんだろう。RPGにはよく、HPがゼロになっても倒れない、イベント戦ってもんがあるってことをな!
まあ、今回がそれなのかどうかは、俺も知らないけどな!!
「いいか、俺はな、負けたことを言い訳して努力しない人間も嫌いだ! ......けど!」
だから俺は、『ただ俺が個人的に気に入らない』という切実な思いを乗せて、叫んだ。
「......けど俺は! アタファミのことをバカにする人間は! それ以上に嫌いなんだよ!!」
取り巻きは完全にきょとんとして、なにも言葉を発さない。俺と紺野の睨み合いだ。
「いいか、このゲームは神ゲーだ! ゲームバランスもいい。磨 けば実力はいくらでも伸びる上にハメ技は存在せず技術さえ磨けば即死するコンボはない! キャラは個性とアイデアに満ち溢れ ていて、どれもこれも別ゲームで主役を張れるようなキャラばかりだ! それでいて隠し要素、一人プレイ要素も満載でなんとオンラインにも対応! しかもオ ンライン環境もすこぶるよく、ノンストレスで対戦ができる! サポート対応もいい! さらに! 通常攻撃とは別の必殺技、そして派手なエフェクトの超必殺 技によって、ライトなゲーマーにも楽しめる! アタファミはそんなコアゲーマーへのやりこみの配慮と、ライト層へのポップさのバランス、そんな相対 する要素を完全に両立させている、不朽の名作なんだよ!!」
「は? キモなにそれ、それがお前の言いたかったこ」
「けどこの際! そんなことだって!! ど────っっっだっていい!!」
俺は喉が千切れるほどに叫んだ。紺 野エリカもあっけにとられている。
「てめえらふざけんなよ! な───にが『努力ぜーんぶ無駄だったね』だ!! ふざけんな!! てめえらみたいなクソビッチにはわからないだろうがなあ! 中 村 は! いまだけじゃねえ! この数週間!! めちゃくちゃに努力を重ねてんだよ!!」
中村がこちらに驚いた視線を送る。
「俺にはわかるんだよ!! いいか、二戦目二機目で俺のコンボを抜けたときの動き! あれはなあ! めちゃくちゃ難しいんだよ! 一朝 一夕 でできるようなもんじゃないんだよ! 猶予フレーム数十!! 普通なら安定させるのに数か月かかる!! こんな緊張する場での実践となったらさらに難しい!! 偶然でできるようなもんじゃないんだよ! わかるか!? それだけじゃねえ! 最後の試合の俺を撃墜したときの動き! 俺だって毎回成功するか危うい操作難易度のコンボだ!! MLJ! ムーンライトジュエルと呼ばれてる激ムズコンボだ!! すげえんだよ! 中村は!! いいか!! 耳の穴かっぽじってよく聞きやがれ!! お前らにはわかんないだろうけどなあ! 中村はなあ! 目的を持って! しっかり! 毎日! 逃げずに! 嫌になっても続けて続けて続けて続けて、それでこうして実際、そりゃ本当に小さいもんかもしんないけどなあ!! 結果につながってんだよ!!」
俺はほとんど絶叫していた。
「だから中村を笑うんじゃねえ!! 人の努力を笑うんじゃねえ!! 本気でがんばってる人間はなあ!! なによりも!! 絶対に!! 美しいし、正しいんだよ!!」
そして俺は視界が真っ白だか真っ黒だかわからない、そんな状態になりながらも、
「俺はなあ!! 負けたのに言い訳して努力をしない人間も嫌いだ!! アタファミのことを馬鹿 にするやつも嫌いだ!! けどなあ!! それよりなによりもなあ!!」
本気で、叫んだ。
「てめえで努力もしねえで人の努力を笑う人間が、いっっっっちばん! 嫌いなんだよ!!」
***
沈黙。紺野エリカはなにも言わない。取り巻きたちは紺野エリカの様子をうかがっている。中村は驚いた様子で固まったまま俺をじっと見ている。中村の取り巻きたちは居心 地が悪そうに体をもじもじと動かしている。日南は少し目が潤んでいる。まじかよおいおい。さすがは演技派。すげーわあいつ。
そんな状況で最初に動いたのは紺野エリカだった。
「......キモ、なに語っちゃってんの」
その号令を合図に、取り巻きたちが息を吹き返す。
「ほんとだよね」
「なにマジになってんの、ゲームごときに」
「ほんっとキモい」
ああ、だめだ。なるほどな、これが『空気』ってやつか。いま、紺野 エリカの言葉によって『マジになって語ること』が悪である、というルールが制定された。それを肌で感じた。
俺はもうここまでだ。弾は出しきった。あとは任せたぞ、日南。俺でもここまでやれたんだ。
お前なら、もっとうまくやれるだろ。
日南に目配せすると、日南はニコ、と軽く笑ってうなずき、そして前を向き、唇を動かした。
「えー、でも悪くないと思うけどなぁ。そういうのに本気になるって」
そして部屋中に響き渡る、快活で愛嬌のある声。
──いや、快活で愛嬌のある、けれど少し怯えたような声。
え? 怯えたような?
「......は? どういう意味? 優鈴?」
紺野エリカの目がギロリと泉に向く。え!? い、泉!?
泉の隣を見ると、声を出しそこなった唇をポカーンと開けたまま硬直する日南がそこにいた。
「い、いやーなんていうの? ほら、そういうのもやっぱ? 少年みたいでうつくしーみたいなー......」
「へえ? 私じゃなくて友崎のほうかばうってわけ?」
泉はもう、わかりやすいくらいに肩をビクッとさせる。
「て、ていうかさ! 違うの、最近ね、ほら、私もアタファミ? っていうの? やってみてるんだけどさー、これがまた奥が深くてねー! ほらほら、エリカもやろーよ! ね!」
「は? なに話そらしてるの?」
「そ、そ......そらしてないよ~! だってほら、いまアタファミの話してたじゃん? ね? ていうかさーこれ小ジャンプってのが意外と難しくてね、やろうとしてもこれがなかなかうまくいかないの! あ、でも私最近うまくなってきたんだけどー」
「......はあ?」
痛々しいほどに空回っている。空気が読める泉のことだ。自分でそのことに気がついていないはずがない。
「しかもねー! 強い技に限って出るのが遅かったりしてねー、なかなか当てるのが難しいんだよねー。あ、でも、だからね、私見つけたの! 出るのが早い技を当ててから、そこからつなげればいいって! コンボってやつ!? ......って、当たり前か! あははー......」
だからこれは、つらいけど我慢して、意志を持ってやっているんだ。けれど、表面的にだけ見たらかなり様子がおかしい。その泉優 鈴から発せられる違和感、そしてその理由のわからない必死さやひたむきさに、場が混乱し、焦点がぼけていく。
「そう! だからねー、やっぱりファウンドを使いこなすのって難しいと思うんだー。いやぁ私もまだまだ未熟だね~。でも、フォクシーはもっ と難しいんだよねー、っていうのもね、落下が速いから! これはね~事故死が多くなっちゃうんだよねー。いやぁ難しいねアタファミは。けど私は、がんばる つもりなんだよ、理由は秘密だけどね、なんちゃって、あはは......」
この場にいる全員が泉に目を向けている。人の目を気にする泉にとって、これはかなりきつい状況のはずだ。
「それでねー、じゃあ他のキャラはって話なんだけどー......」
見かねた日南が一歩を踏み出す、よりも一瞬早く、紺野 エリカが泉の肩に手を置いた。
「泉、もういいわ。なんかシラけた」そして取り巻きへ向けて。「みんな、行こ」
泉を残して、紺野軍団は部屋から出ていった。そしてそのタイミングを利用して、中村の取り巻きも部屋を出ていった。
バタン、とドアが閉まったあとの一瞬の静寂。そして次の瞬間、泉が床にへたり込んだ。
「......こ、怖かった......!」
そして、グスングスンと泣きはじめた。まじか。
そこに近づいていく中村。
「馬鹿、なに無理してんだよ。お前、そんな柄じゃねえだろ」
「でも......でも......!」
泉の肩に手を置く中村。おいこら、俺の弟子に勝手に触るな。いや、でも別にこの二人好き同士っぽいからいいのか。いいな別に、うん。
「いいからなんも言うな。お前は、よくがんばったよ」
「うう......! 修二~~~~!」
「いいから、ほら。こんな顔見せたくねーだろ?」
中村は泉に手を差し出す。
「う、ううん、大丈夫......!」
そうして泉は袖で勢いよく涙を拭いて キリッと表情を作りなおすと自分の足で立ち上がり、二人で並んで部屋を出て行......く直前に中村がこちらに鋭く、視線だけを向けた。そして、口の中 だけで響いて終わるようなごく小さな声でなにか、ボソボソと言った。その声はとても俺のところまで届くような音量ではなかったが、なぜか俺にはその言葉が やけにはっきりと聞こえた。そしてそこに宿っていた意志は、俺が聞く限り、本物だった。
「次は勝つ」
そしてまた泉とともに二人並んで、部屋を出て行ったのだった。
えっと──...?
「......なんだこりゃ」
「......知らないわよ」
珍しく日南がぽかーんと、無防備な表情をしている。
その顔を見ながら今回の事件についてぼんやり考えていると、俺はあることに気がついた。
「ああ、そういえば」
「......なに?」
「お前さ」
日南がよく使う、皮肉めいたトーンを意識して。
「今回、なーんもしなかったな」
俺は日南と会って以降初めて、心にグサリと来た、みたいな日南の表情を見ることができた。
事件から三日後の土曜日。
俺と日南は北与野にあるイタリアンで、世界一おいしいサラダを食べていた。
「うますぎる......」
「ふふ。でしょう?」
まさかパスタやピザではなく、前菜のサラダの時点でやられるなんて。不意打ちだ。ずるい。ずるすぎる。けど嬉しい。
野菜本来の甘みとドレッシングの完璧 なハーモニーを楽しみながら、俺たちはおなじみの会議を始めた。本当ならすぐにでも話し合いたかったのだが、日南がことの収拾にしばらく時間を取られてしまい、今日までしっかりと話し合いができなかったのだ。
「しかしまあ、散々だった......」
旧校長室で繰り広げられた一幕は、その目撃者の多さや内容の派手さもあって、その詳細までもが多くの人の耳に入ることとなった。中村 の連敗っぷり、俺の調子に乗った啖呵 、俺の気持ち悪いくらいのプレイング、俺の本気で語っちゃってる叫び、俺の......ってあれ? 俺の悪評ばっかりだなあ。ははは。
しかし、事件が与えたクラス内勢力図への影響は......驚くべきことに、それほど大きなものではなかった。
相変わらず中村はヒエラルキーのトップに君臨しているし、中村グループと紺 野エリカグループで、なにか表面的な争いが起きたりもしていない。さすがにグループ同士の交流の頻度 は減ったようだが、金曜日、泉 を仲介人として中村と紺野が少しギクシャクしながらも会話しているのを見た。あいつら人間関係の修復うますぎ。予後を見て回復を待つといった感じだろう。
そんな中で大きく変わったことといえば──二つ。
一つは泉について。泉が中村にかまってもらうためにアタファミを練習している、ということをクラスのほぼ全員が察して、なにか温かいものを見守るみたいな空気になったのだ。たぶん、泉の気持ちに気がついていないのは、クラス内でも中村だけだろう。
『鈍感』と言ったら中村のことを指す、という式がクラスの中で浸透しつつあるし、そのことにすら中村は気づいていないというお笑いな状況になっている。アタファミに夢中すぎるのだ。なんつーか、あいつの負けず嫌いっぷり、ちょっとゲーマーの才能があるかもしれないな。
そしてもう一つの変化はその中村だ。事件以降、俺に負けた悔しさからなのか、より一層アタファミへの情熱を増している。それだけならよ かったのだが、いまは恋とかそういうの眼中にないから! って感じになってしまっている。短い休み時間や昼休みさえも使って、鬼のように練習しているらし い。
つまりはまあ、なんというか、キューピッドポジションであったはずの俺のせいで、中村は泉のことよりもアタファミにしか目が行かなくなってしまった。......中村、たぶんそれまでは結構泉のこと気にしてたよな。えーと、ごめんなさい。逆効果を与えてしまいました。
「まあ、それでも、あなたへの悪影響が少なくすんでよかったわよ」
「......それもそうだな」
そう。そして俺への影響も、想像よりは少なかったのだ。
あの日は水曜だったから、今日までの二日間。野次馬根性で俺にいろいろと聞いてくるクラスメイトもちょくちょくはいたが、その大半は悪意 でも好意でもなく単純に好奇心といった感じで、投げかけられた質問に俺が事実を答えると、へー! と満足して去っていくだけだった。あの事件のせいで、敵 が増えることはなかったのだ。友達も増えなかったけど。
──ただおそらく、中村や俺の被害が最小限に済んだのは、日南の暗躍があったからこそだ。
日南は「いろいろあるから」とだけ言って詳細は語らず二日間、会議を欠席したが、その間に日南がしていた広報活動を俺は何度か目撃している。一番印象に残っているのは、クラスの中心で「へー! けどあの修二 がそれだけハマるって、やっぱアタファミっておもしろいんだろうなあ」とかなんとか、明るい口調で言っていたことだ。あれがステマってやつだろう。中村とアタファミの印象をこっそり操作していた。
たぶんその感じで、俺のフォローもしていてくれたのだと思う。まあ......感謝だな。
それから、これはいままでも言っていたのかそれとも俺との一件があったから開き直っているのかはわからないけど、クラスメイトの前で「おにただ!」と元気よく言っているところも一度だけ目撃した。あいつあれ好きだな。
「で、報告っていうと......」
「事件以外だと......風香ちゃんの件ね」
「ああ。なんつーか、まあいろいろあってな」
そして俺は、菊池さんに本当のことを告げ、映画には誘わなかったことを報告した。
日南は呆れたようにため息をついた。
「あなたね。せっかくいい感じになりそうな可能性があった二人ともを逃したっていうの? ねえ、本当にやる気あるの?」
「いや、あるよ、あるある」
「......いいわ、過ぎたことをグチグチ言ってもしかたない。この状況からどうするかを考えましょう」
そう言って頭をひねり出す日南。
「......そうだな」
俺はそう言いながら、また感心していた。
こいつはやっぱり、こういうところがすごい。今まではなぜか『すごい』ということが当たり前になってしまっていて、なぜそこまですごいのか、というところは見えていなかった。
しかしその実、それは単純なのだ。すごくなろうとしているから。現状をきちんと受け入れて、努力しているから。ちゃんと一歩ずつ着実に、自分の意志で、進んでいるから。
だから、すごいのだ。
ICレコーダーの音声を聞いてしまって以降それを実感した俺は、こいつに対してまあなんだ、すごいというか尊敬というか、まあいわゆるそれに似たような感情を抱いていた。
そして、それならばと思い、俺はまた日南に指示されていない行動を取ろうとしていた。
「なあ日南......ところで、これは雑談なんだけどさ」
「なによ?」
日南が少し警戒したような目を向ける。
俺は内ポケットに手を入れる。そして、できるだけ白々しく、こう言ってやった。
「明日のさ、マリー・ジョーンの試写会のチケット持ってるんだけど、一緒に行かないか?」
日南は一瞬面食らい、そのあと憎たらしそうに笑った。
そして俺と同じように白々しく、こう返してきた。
「──ああ、ごめんなさい。明日は予定が入ってるの。行けないわ」
俺は努めて明るくはははそうか、と笑い、そして割りと心から落ち込んだ。だめかー。
「だけど、まあ」
「......ん?」
すると日南は、出来の悪い子どもを見守る親のように優しげで、けれどどこかいたずらっぽい笑みを浮かべて、こう言った。
「このあとなら空いてるから、これから、他の映画でも行く?」
俺は一瞬頭が真っ白になる。
そしてそのあと、理由のわからない、猛烈な高揚感のような達成感のような、興奮に襲 われた。けどこれはおそらく『リア充に近づいた』とか、『女の子とお出かけできる』とか、そういう理由の喜びではないのだと思った。
ただ単に、ただシンプルに、『現実で、自分の努力で、自分が欲しい結果を出した』。そんな実感からくる、原始的な高揚なのだ。たぶんだけど、そんなような気がした。
「......おにただ!」
俺が試しにそう言ってみると、ちょっと使い方が違うわね、と指摘された。なるほど、こういうところも、ちょっとずつ進歩させていかないとな。
だって、それが人生ってもんなんだろ? なら、目にもの見せてやるよ。
このゲームに関しては俺も初心者だけど、これからやりこんでみるからさ。
──以上、日本一のにわかゲーマー、弱キャラのnanashiより。
初めまして。第一〇回小学館ライトノベル大賞の優秀賞という身に余りある賞を頂戴し、デビューさせていただくことになりました、屋久 ユウキと申します。
今回、ガガガ文庫よりライトノベルを出版することとなりましたが、これはもちろん僕だけの力ではなく、さまざまな方々の協力のおかげでそのような形へと相成ったわけでして、ならばせめて、大いなる蛇足である『あとがき』でも正々堂々、思ったことをまっすぐに書こうと思っている次第です。
とは言いましても、僕は自分のことについて語るのはあまり得意ではなく、かと言って作品の内容やテーマについて解説するというのも、それ ぞれの解釈の余地をそぐような、作者の手から離れた作品に注文をつけるような作業にもなってしまいますので、今回は表紙イラストを見たときの僕の感情の動 きについて話そうと思っています。
僕はまず、表紙イラストが担当編集さんから届いたとき、そのかわいさに驚きました。そのきりりとした表情や髪の毛の軽い質感、スクール バッグとブレザーを配置するというフェチ感あふれる構図など、さまざまな点において素晴らしさを感じたのですが、もっとも感動したのは太ももでした(他の 点についてはいずれ話す機会があることを信じて省略します)。
僕が一体この太もものなにに感動したのかというとそれは単純で、向かって右側、日南 さんの左脚の付け根の部分です。ここまで言ってしまえば半分くらいの方は「わかる」と頷いているかもしれませんが、ご察しの通り、その膨らみです。
肉と言えばいいのか、それとも若さの迸りと言えばいいのかわかりませんが、太ももの付け根のあたりにある、ぷっくりとした膨らみに、僕は心を動かされたのです。
そしてそこで僕は一度冷静になり、この脚を膝から見ていき、そこから太ももにかけてのラインを辿 っていくことし、そして気がつきました。この脚は、最初のうちはしなやかな、スリムさを表現するようなへこんだラインになっています。しかしそこから太ももの付け根、日南さんが地面についている手のあたりを過ぎた途端に、膨らんだラインになっているのです。
僕の頭のなかに、電撃が走りました。
この数ミリメートルの工夫に、とても強い思いが込められていることを直感したのです。それはこちらの勝手な解釈なのかもしれませんが、しかしそれを確信していた自分もいました。
その確信には理由がありました。棒人間にも太ももは作れるからです。意味がわからないと思いますのでもう少し言葉を重ねますが、頭と体と 手足を線で書き、脚の中心部をカクンと折り曲げて膝の部分を作ってしまえば、それより上は太ももです。それを太ももだと主張しても誰も文句は言いません。 少なくとも僕は言いません。
つまり、『太ももである』ということを表現したいだけならば、それでも事足りるのです。
もう少し工夫するとしても、直線的な線だけで囲い、その中を肌色に塗ってしまえばそれは十二分に太もも足りえます。
しかし、今回の表紙は、イラスト担当のフライさんはです。そこに曲線、しかも絶妙な凹凸 を加えました。この工夫が意味すること、それはつまり絵にリアリティを持たせるため、フェティシズムを吹き込むため──いや、そんなまどろっこしい言い方はあまり適切ではないかもしれません。この工夫はただ単に、日南 さんに『体温』を与えるために行われた、指先数ミリメートルの魔法なのです。
紙の本をお持ちの方はその表紙の太ももに、電子書籍でお読みの方は表紙を表示してその画面の太ももの部分に、そっと指をあてがってみてく ださい。人差し指がいいかと思います。どうでしょうか。そこに感じないでしょうか。確かな体温、日南さんのぬくもりを、感じないでしょうか。
少なくとも僕は感じます。いま僕は画面に表示した太ももに触れながら左手だけでキーボードをタイプしていますが、右手の人差し指の先端に 感じているそれは、そりゃ本物の人間に触れたときのような物理的な体温とは少し違います。違いますよ。そこは認めます。けれど、その指先にほんのりと、嘘 のようだけれど本物の体温が、息づいています。
皆さまにこの思いが伝われば嬉しいです。
そして謝辞です。
まずは第一〇回小学館ライトノベル大賞の選考に関わった皆様方、この作品の編集、出版、営業、販売などもろもろの仕事に関わっていただいた皆様方、ありがとうございます。
そして、厳しくも実のあるさまざまな助言を下さった担当編集の岩浅 さん、新人賞応募前に原稿を読み、参考になる率直な感想で応募原稿の改稿を助けてくれた同居人のTくん、また、まだ何者でもない僕の作品を、びっくりするほどかわいくて色気のある絵で彩ってくれたイラスト担当のフライさん。本当にありがとうございます。
最後に、この作品を手にとってくれた、または読んでくれたすべての方々。
ありがとうございます。
もしよろしければまた付き合っていただければ幸いです。
屋久ユウキ
屋久ユウキ
Yuuki Yaku
1991年生まれ。第10回小学館ライトノベル大賞優秀賞。一旦保留したいときに「なるほど」と相槌を打つ癖がある。1作目の話し合い段階で担当から「なるほどって言ってるけど納得してないでしょ」と見抜かれる。
小学館eBooks
弱キャラ友崎くん Lv.1
2016年5月27日 電子書籍版発行
著 者 屋久ユウキ
発行人 立川義剛
編集人 野村敦司
編 集 岩浅健太郎
発行所 株式会社 小学館
〒101‐8001
東京都千代田区一ツ橋2‐3‐1
s-ebook@shogakukan.co.jp
底 本 2016年5月23日 初版第1刷発行
ⒸYUUKI YAKU 2016 ISBN978-4-09-451610-4
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